世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年4月号を再編したものです
ストックホルム
スウェーデンの首都、ストックホルムは美しい街だった。2度の大戦を経験しなかったストックホルムには、古風でのどかな街並みが続いている。春浅い広場には、花や果物の市が立っている。
そんなうららかな街の様子に反し、選手たちは燃えていた。文化大革命のために宿敵の中国が出場しない中、日本は順調に勝ち進み、準決勝を迎えていた。対戦相手はソ連。相性の悪い相手だった。大会前に2度の練習試合をしたが、0-5、1-5で2度とも敗北。観客も報道陣も、ソ連の勝利を予想していた。
そして今大会の準決勝、日本は1-4まで追い詰められていた。あと一つ取られれば負けである。もうダメかもしれないという思いが、選手たちの頭をかすめた。
このとき、チームのリーダー的存在だった木村興治が全員を呼んで言った。
「このまま負けたら日本に帰れないぞ。こんな状況でもがんばるのが、日本の強さなんだ」
木村の言葉に、選手たちは少しでも弱気になったことを恥じ、奮い立った。劣勢をはね返して5-4と逆転し、決勝へと駒を進めた。
調子は◎
決勝戦の朝、河野はノートに「◎」をつけた。ノートというのは、監督に見せるコンディションノートである。調子が良ければ「○」、普通ならば「△」、悪ければ「×」と書いて監督に提出するのだ。このノートを参考にオーダーが決定される。どうしても決勝で起用されたかった河野は、掟(おきて)破りの「◎」をつけたのだった。
決勝の相手は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。「◎」の気持ちが通じたのか、河野はメンバーとして起用された。日本は5-3で北朝鮮を破り、河野は団体優勝に大きく貢献したのである。日本選手団は喜びに包まれた。
男子シングルスでも日本は大活躍、決勝は河野と長谷川信彦の日本選手対決となった。2-1とリードした河野は4ゲーム目も順調に運び、17対13と長谷川を引き離していた(当時は1ゲーム21ポイント)。
「ああ、長谷川に勝って日本一になれる。いや、世界一になれるんだ」
そんな考えが頭に浮かんだ。
しかし、そう考えたとたんに体が硬くなった。ミスが怖くなって、思い切って攻撃できない。その結果、河野は第4ゲームを落としてしまった。
まだ大丈夫、5ゲーム目がある。そう思って臨んだ最終ゲーム、試合は河野リードで進んだ。このとき、河野の頭にまた同じ考えが浮かんだ。
「いい調子だぞ。優勝したらどうしよう」
勝ちを意識した瞬間、河野の勝機は失せた。優勝したのは長谷川だった。
団体、シングルスともに優勝し、日本選手団は大喜びだった。シングルス優勝の長谷川はもちろん、世界選手権初出場で2位になった河野にも、多くの称賛が寄せられた。
笑顔で凱旋(がいせん)した河野だったが、胸中は穏やかでなかった。世界チャンピオンと世界2位。そこには大きな隔たりがあった。今度の大会で、自分が世界で戦えることはわかった。次こそ世界チャンピオンを狙おう。河野は決意を新たにした。
ミュンヘン大会
世界の舞台を知った河野は、世界一目指して黙々と練習に励んだ。大学卒業後は旺文社に就職。昼は勤務しなければならなかったが、代わりに夜はみっちり練習した。
そうして迎えた1969年世界選手権ミュンヘン大会。勢いのある日本はまたもや団体優勝。その中でも河野は、ドイツのエース、シェラーを日本選手の中でただ一人破るなど、確実に勝利を挙げる選手として注目されていた。
「今回の河野は動きがいい」
「男子シングルス優勝は河野に違いない」
周囲の者は口をそろえて言った。今度こそいける。団体戦で好成績を残し、河野は自信を深めていた。
しかし、河野は同じ過ちを繰り返した。
5回戦、ソ連のアメリンとの試合。これまでの対戦では、負けたことはなかった。このときも河野は1ゲーム目を先取。上々の手ごたえだった。
「いける! もう完全に勝てる」
勝ちを意識した河野の体は硬くなり、攻撃力も影を潜めた。前回のストックホルム大会のように。
河野は敗れた。世界チャンピオンどころか、5回戦負け。呆然(ぼうぜん)とする河野をよそに、大会は進行した。そして、伊藤繁雄がチャンピオンとなった。
勝てない
伊藤が優勝。河野にとって、何よりも悔しい出来事だった。一番のライバルの伊藤が、自分より先に世界チャンピオンに。人前でこそ平気なふうを装ったものの、河野は強烈なジレンマに襲われていた。団体戦ではあんなに調子がよかったのに、どうしてシングルスでは勝てないのだろう。俺は伊藤にだって何度も勝っているのに。
そんな雑念が浮かんでくると、河野はとにかく練習した。ジレンマに負けて弱気になることは、プライドが許さなかった。
しかし、そうした努力は報われず、河野の成績は振るわなかった。1971年の世界選手権名古屋大会も5回戦負け。世界はおろか、全日本選手権大会でも勝つことができなかった。
「河野はダメなんじゃないかな」
「全日本でも勝てなくて、世界選手権で勝てるはずがないのにな」
否応なしに聞こえてくる周囲の評価は、河野の胸に突き刺さった。
しかし、負けず嫌いの河野は、決して他人に胸の内を見せなかった。悔しい気持ちは練習にぶつけていっそう励み、一人になると布団の中でこっそり泣いた。高校・大学時代の厳しい練習や上下関係に耐えてきたことを思えば、勝つことができないつらさなんて我慢することができる。逆境の河野を支えたのは、そんな思いだった。
精神面が悪い
「河野はダメだ。精神面が悪い」
周囲の声がやむことはなかった。頭にきた河野は、ある先輩に詰め寄った。
「先輩もみんなも、いつも精神面が悪いって言いますけど、精神面って何なんですか!」
だが、相手は平然と、
「普段の生活だ」
わかったようなことを言いやがって。河野はますます頭にきた。
「普段の生活って何ですか!」
「ちゃんとやることだ」
「ちゃんとやってますよ!」
くそ、人の努力も知らないで勝手なことを言いやがる。俺のやり方は、絶対に間違ってなんかいない。
強がってはいたものの、周囲の冷たい評価と自分の中にある焦りは、徐々に河野の闘志を蝕(むしば)んでいった。どうして勝てないのだろう。卓球で頂点を究めるなんて、どうせ俺には無理だったんだ。膨らみ始めたマイナス思考は、河野を押しつぶしていった。
もう、卓球なんてやめてしまおう。(次回へ続く)
Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。




