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オフチャロフインタビュー#1 
「心から信じられることをやることが重要」

 顔の前で左右の腕を交差し、深くしゃがみ込んだ独特の構えから繰り出すバックハンドサービスで、日本の卓球ファンにもおなじみのディミトリ・オフチャロフ(ドイツ)。長らくドイツの主力選手として活躍し、男子シングルスで2度のオリンピック銅メダルを獲得するまでのトップクラスの選手に成長したオフチャロフに、卓球レポートは初めてのロングインタビューを行った。
 キャリアのスタートから、彼がなぜトップ選手へと成長することができたのか、また、ユニークなプレースタイルの源泉はどこにあるのかなど、多岐にわたる質問をぶつけてみた。
 初回は、卓球を始めたきっかけ、彼のプレーの独自性がどのように育まれたか、また、出身地であるウクライナからドイツに移住することになった経緯などについて聞いた。

「自分のスタイルでプレーすればよい」
それを身をもって示すことがモチベーションになった

--卓球はいつどのようにして始めたのですか?

ディミトリ・オフチャロフ(以下、DO) 父がソビエト連邦(当時)の元チャンピオンでソ連の代表選手でした。1983年に東京で開催された世界選手権大会にも出場していて、その時使っていたラケットが、バタフライのカーボン素材を採用した最初のラケットであるTAMCA5000だったんです。
 父は私のことも卓球選手に育てたいと考えていたようです。私が幼い頃、面白いアニメがあって、そのアニメのその登場人物が卓球をしているというストーリーを作り上げて、私が卓球を実際に始める前から卓球に興味を持たせてくれたりしました。
 5歳か6歳の時に卓球をスタートして、最初にコーチをしてくれたのは母(※編注:彼女も卓球選手だった)でした。7歳から8歳くらいの時に、父がコーチを引き継いでくれました。練習場所は家の地下室で、学校から帰ってきてからずっと練習していましたね。
 最初に成績が出たのが8歳か9歳の時で、その頃には卓球の楽しさも覚えていましたし、負けると悔しいという気持ちもあったので、もっといい成績を目指して努力するようになりました。
 そのようになれたのは、幼い頃から私を支えてくれた両親のおかげですね。父は今でもコーチとして、私の調子がいいときも悪いときもそばにいてくれます。

少年時代を振り返るオフチャロフ。両親とも卓球選手だった


--始めた頃は、卓球のどこに面白さを感じていましたか?

DO これというのは思い出せませんが、私のプレースタイルは当時からすごくユニークでした。レシーブにバックハンドを多用して、バックハンドサービスも使うし、トマホークサービス(しゃがみ込みサービス)も使うので、自分が通常とは違うプレースタイルだという認識は昔からありました。
 10歳から12歳ぐらいの時、そういうプレースタイルが最新のスタイルではないと周りから言われるようになりました。その時は指導書に従って正しいことをやるべきだという意見と、そのまま自分のやりたいように自分のスタイルを貫けばいいという2つの意見の間で揺れましたが、父は「そうした言葉にとらわれずに、自分が自然だと思うことをやるべきだ」と言ってくれました。その時は、その言葉に勇気づけられましたし、成功するために特定のスタイルでプレーする必要はないことを私が身をもって示すんだというある種のモチベーションを感じました。
 自分のスタイルでプレーすればいいのです。自分を信じ、一生懸命に努力すれば、本に書いてあることが正しかろうが間違っていようが、強くなることができるのだと思います。

--幼い頃から、かなり多くの時間を練習に費やしていたと思いますが、練習内容はどのようなものでしたか?

DO やはり、幼い時は卓球に限らず他のスポーツでも練習は嫌だし、何か別のことをやりたいと思ってしまうものですが、父は常に、練習を面白くしようと工夫してくれて、厳しい反復練習をさせるだけではなく、私が幼かった頃には、おやつをくれたり、おもちゃをくれたりということがありました。6歳か7歳の頃だったと思いますが、特に思い出に残っているのが、100回ラリーが続いて、スーパーボールをもらえた時のことです。他にもおもちゃをもらったという記憶があります
 さらに、練習がうまくいった時には、大きなチームの試合に連れて行ってくれたりということもあって、それもモチベーションになりました。両親は多彩さや面白さのある練習を最大限心掛けてくれていたように思います。
 12歳から14歳の頃は、練習が楽しめず、良い練習ができない時があって、そういう時に父が言ってくれたのは、「ディマ、今日の練習はうまくいかなかったね。ただ、今日 世界の誰かは良い練習ができただろうね。でも、今日の練習をやり直すことはもうできない。明日は明日の練習をしなくてはならないからね。もし、お前がすべき努力をせずに、それをやる誰かがいれば、試合で自分が何をするべきだったかを知らされるだろう。それは、お前ではなく努力を続けた誰かが成功する理由になるかもしれないよ」と。この言葉がどういうわけか私の心に残っています。
 そういう話を聞いて、もっと戦いたいと感じることがありました。うまくいかなかった試合や苦しい試合でも、これまで精いっぱい頑張ってきたのだからという思いで、悔いなく頑張ることができるようになっていって、それは今日まで続いています。そのおかげで、まだまだ前進したいという気持ちを保てています。

4歳の頃のオフチャロフ。後列左から父ミハイルさん、母タチアナさん、渡独時の一家を支援したアッサ氏


心から信じられることをやることが重要

--お父さんの指導方針がオフチャロフ選手の成長に大きな影響を与えているようですね。

DO 父がどのように考えていたかはわかりませんが、彼は何かを正しいとか間違ってるという判断を下すことはしませんでした。ただし、言ってくれたことは、まず自分が自然だと思うようにやりなさいということと、自信を持ってできる方法でやりなさいということでした。
 もちろん、一般的には正しい、間違っているということはあるでしょう。でも、他の人が「それじゃダメだよ」と言うようなことでも、父は反対せずに「自分がやりやすいようにやればいい」と言ってくれてました。それは、おそらく父自身が経験豊富な選手でもあったからだと思います。
 難しい局面で自分を信じていないと、いいレシーブができないというようなこともあります。他の人が自分が信じているのと違うやり方でやるべきだと言った時に、それを心から信じていなければ迷いが出て、結局うまくそのプレーができないということになります。理論的に正しいとか間違っているということはもちろんありますが、心から信じられることをやるということが重要だと父には教わりました。

--A.ディアス選手(プエルトリコ)もインタビューで、彼女のお父さんが彼女の個性を伸ばす指導法だったと言っていました。共通点がありますね。

DO ユニークなところを伸ばすのはすごく重要だと思います。例えば、ティモ・ボル(ドイツ)の卓球、水谷隼(木下グループ)の卓球、馬龍(中国)の卓球を見た時に、彼らは正しいプレーをしているに違いないと思いますが、それをコピーするのは難しいことです。まねするのも難しいですし、自然にはできません。
 卓球はすごく技術に左右されるスポーツなので、他の選手をすごいと思ってもそれをコピーするのはすごく難しいことです。やはり、その選手の独自のいいところを伸ばすことがすごく重要だと思います。

人々が早く再建を始められることを祈っている

--旧ソ連からドイツには、いつ、どのような経緯で来ることになったのですか?

DO 私が母のおなかの中にいる時に、父はポーランドリーグでプレーをしていました。生まれる少し前にチェルノブイリで原子力発電所の事故がありました。チェルノブイリは私の生まれたキーウ(現在のウクライナの首都)から100kmくらいの距離にあったので、両親は放射能の影響をすごく心配して、別の場所に移りたいと考えていました。その話が出た頃に、ちょうど父にドイツのテュンダーンのクラブから声がかかって、これはいい機会だということで、私が生まれて間もない頃にドイツへの移住を決めました。
 そのオファーがあったので、移住は難しくありませんでした。最初は父は選手としてプレーしていましたが、後にコーチになりました。加えて、父は、当時のドイツはあらゆる面で環境が整備されていると感じていたと思います。ドイツでなら安定した生活とキャリアを手に入れることができると考えたのだと思います。

--オフチャロフ選手はキーウで生まれたということですが、今日のウクライナの情勢は卓球界にも影響を与えていますね。

DO ものすごく悲惨な状況ですね。卓球界も影響を受けてはいると思いますが、ウクライナにいる人々に比べたら影響は少ないと思います。私の祖母は、ロシアの軍事侵攻が始まった時にはウクライナに住んでいて、私たちは彼女にそこを離れてほしいと伝えましたが、彼女は生涯ずっと同じアパートで暮らしていて、住み慣れた場所を離れたくないとそこに住み続けていました。
 しかし、そこは危険すぎるから離れてほしいと引き続き言い続けていたら、彼女はようやくドイツに来てくれましたが、残念ながら、ドイツに来てから5、6週間たった頃に亡くなってしまいました。旅の途中でけがをして、何度も手術が必要なほどの炎症を起こしていたのです。亡くなる直前に私の子どもたちに会ってもらうことができましたが、もっと私たちと一緒に過ごしてほしかったし、見せたいものもありましたが、不幸にもそれはかないませんでした。
 それから友人であるツムデンコ(ウクライナ)にも電話をかけました。侵攻が始まった日に電話をかけたところ、ウクライナにいて、地下に3人の子と一緒にいると話していましたが、それから1週間後には家族とデュッセルドルフに来たということでした。ウクライナの人たちは電気が使えない、お湯も出ないというような状況の中で、苦しい生活をしていたようです。みんなのことを考えるととてもつらいですね。
 私はキーウで生まれ、オレンブルク(ロシア)で12年プレーしました。そこはすごく小さな町ですが、町全体が卓球で成り立っているようなところで、すごく大きな卓球のセンターがあり、選手もたくさん抱えています。子どもたちやハンディキャップを背負った選手からトップ選手まで幅広い卓球人がいるようなところです。そんな町が政治的な決定によってその情熱まで奪われてしまいました。彼らがそこに取り残されたのは彼らのせいではありません。
 そして、平和のために活動していたアスリートにとっては残念なことです。彼らは卓球という自分たちの仕事を続けることも、情熱を追い求めることもできません。私は本当に、この不安定な情勢が、今日にも終わって、人々が早く再建を始められることを祈っています。平和はとても重要で、人々が亡くなっていくのを見るのはとても悲しいことです。

不安定な情勢下の祖国について語るオフチャロフのまなざしは、にわかに悲しみを帯びて見えた


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(まとめ=卓球レポート、取材協力=寺本能理子)

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