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「卓球は血と魂だ」 第二章 二-イ、眼力と奮励心と創造力

二 コーチの哲学

イ、眼力と奮励心と創造力


 昭和五十八年五月末、NHKテレビの特別番組で、ガンと闘うある精神科医師の尊い苦闘の三年間の日記をめぐってのドキュメントが放映された。

 千葉の大学病院の部長であるその先生は、まだ四十九才の若さであったが、ガンと闘う身になって初めて知る患者の心情に気付かれたようであった。病気になってみてはじめて病む人の心が判るもの、健康な時には病人の気持などわからぬものだ、とは私達も知ってはいるが、精神科医の先生ですら、そうなのだった。

 その先生の日記に「私が、もしこれから五年とか十年生きられるとすれば、もっとよい医者になれるのではなかろうか」とあった由である。

 選手にとってよいコーチとはどんな人か、ということも、これと同じだと私はかねがね考えている。だから、一人のコーチが何十人の選手を担当し、一人一人に完全な指導ができるはずがない。でも、それでもよいコーチはよい指導をしているのではあるが、本当に世界一を狙う本物の選手を育てるには、一人のコーチが出来るのは限られた人数であろうと思う。

 コーチにとって基本的に最も大切な任務は、その選手の素質を見抜くこと、そして、いかにしてその選手を燃えさせるか、というところではないか、と思う。技術はその次であり、個性をどう育てるか、である。

 私自身は決して一流のコーチであったとは云えない。まあ、欲目にみても二流コーチの上の部であった、と思っている。なぜ一流でないかと云えば、まず第一に私はアマチュアコーチであった、ということだ。仕事の合間にうち込んだ卓球生活であったわけで、一日二十四時間を卓球にうち込んだ人間とはいえないし、世界的な体験が豊富だとはいえないからだ。

 その程度の自分ではあるが、私の体験を少し述べてみたい。

 昭和三十三年の十二月のことであった。二日後に全日本卓球選手権大会(大宮)が始まる、という日の夜、ふらりと江口富士枝選手が私の家を訪ねてきた。江口さんは卓球日本の女王とうたわれた全日本チャンピオン(昭和29と31)。そして一年半前にストックホルムで開催された世界大会女子単で優勝した現役の世界チャンピオンであった。

 しかし、世界大会後の彼女は、どうしたことかひどいスランプにおち入り、その後の全国都市対抗や国体などで何でもない選手にもポロポロよく負けていた。本人もまったく自信を失い、引退の話も出ていた。彼女はそのころ私と同じ杉並区に住んでおられたが、たびたび来宅されていたわけではない。

 全日本の組合せを見ましたか、という私の質問に対し、「いいえ、こわくて見る気持になれないんです」という彼女の答がかえってきた。この一言で私は彼女の気持がわかったけれど、はじめは少しお世辞を含んだ激励の言葉をくりかえしてみたものの、彼女の恐怖感が本物とわかってくると心配になってきた。

 少しきびしくやっつけた方がよいな、と思い、「あなたは今の状態ではとてもよい成績など考えられない、と私は思いますよ。いや、誰もがもはや江口は終った、と思っていますよ」、と話を始めた。約一時間が経過した。広い部屋に二人だけ。大きな火鉢に沢山の炭火を燃やしていたが、あとの補充はしなかった。夜九時近くなっても江口さんは帰ろうとしない。

 私は決心した。徹底的に江口選手をやっつけよう、と。そこで改まった口調で私は話しはじめた。それから約二時間、私は何を云ったか正確にはおぼえていない。しかし、要旨はこうだった。

 「江口さん、あなたはまだ世界チャンピオンというきれいな振り袖を着ている。そんなものは、かなぐり捨てて真っ裸になってこないとね、昔の江口にはなれないよ。江口という選手は純心で、ファイトのほとばしる選手だった。向上心に燃えた時の江口が本物の江口だ。今の江口は抜けがらみたいなものですよ。」

 「あさってからの全日本でも、本当のことを云うと、私はあんたは一回戦、いや一回戦は不戦だから二回戦で負けると思っている。幸運にして一回勝つことがあってもその次で必ず負けます。私だけじゃない。卓球のよくわかる人ならそう思うはずだ。」

 「だけど江口さん、くやしいと思わんかね。でも、どんなにがんばっても、やはりそのへんで負けるとは思うよ。でもね、同じ負けるとしてもだ、もういっぺん、これが江口だ、という試合をやって負けてほしい、と私は思ってるんだ。あんたは二回戦で高校生と当るだろう。その高校生に対して、あんたの方から先にトレーニング服装を脱いで、先に大きな声で“お願いします!”と言いなさい。そしてガンバルんだ。私は試合会場に行くが、あんたと会っても声もかけませんよ。でも、いろんな人がいろんな事を云うでしょう。お世辞を云う人も多いでしょう。はい、はい、とだけ答え、返事や話はしないことだ。」

 「あんたは、試合場では自分は江口らしい試合をやるんだ、ということ、江口のプレーはこれだ、ということだけ頭に叩き込んでおきなさい-」

 火鉢の炭火が消えて、部屋の中は寒くなってきたが、私は炭火をつがずに話をつづけた。江口さんは一言も云わず、ただうなずいていた。「江口さん、おそくなるからもうお帰りなさい」と私が云ってはじめて彼女は立ち上った。

 お礼を云って彼女は帰っていった。私は少し云いすぎたかな、とは思ったが、そして、それほどの叱声を江口さんに浴びせる立場でもなかったのに、とも思ったけれど、あとが楽しみだった。事実彼女は重症患者だった。私は、その夜、江口さんを立直らせるには彼女を怒らせるしかない、と決心したからであった。

 たぶん江口さんは田舛に何か云ってもらいたかったと思う。しかし、なぜこれほどまで田舛さんに云われなければならぬのか、と心の底から怒りをこみ上げらせたに違いない。そして何くそ!というファイトで燃え上るはずであった。

 試合の日がきた。私は遠くから江口選手の行動を見ていたが、彼女はどうやら私の期待にそっていた。高校生にもファイトをみなぎらせて戦っていた。調子が出てきた。そして堂々と決勝戦に進出した。決勝では松崎キミ代選手に惜敗した。やや峠をすぎた江口と、いま登り坂の絶好調にある松崎とでは、いたしかたなかった。

 それから二十年のあと、大阪で江口さんと会った時、彼女の方からその時の話が出た。こう話された。「あの時、田舛さんに云われなかったら、もうダメでした。次の日本代表にはなれなかったでしょう。実はそのころいろいろ悩みがあったんです。」私は、それをまだ覚えてくれていたんですか、とたずねると、「それは、忘れませんよ」と晴れやかな笑顔をされた。本当に私はうれしかった。

 江口さんは女性らしい、やさしい人柄をもつ人だった。だが、試合に強い時の江口さんは違った。彼女の強い時、彼女が燃えた時のプレーは素晴らしい迫力であった。次の世界大会でも江口選手は卓球日本を背負って大活躍をしたのである。

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