1. 卓球レポート Top
  2. その他
  3. 卓球レポートアーカイブ
  4. 「作戦あれこれ」長谷川信彦
  5. 「作戦あれこれ」第33回 いい感じで打ったフォームを忘れるな

「作戦あれこれ」第33回 いい感じで打ったフォームを忘れるな

 日本の選手が国内の大会でもっとも力を入れる全日本選手権大会('77年)を見て、私は一つ非常に強く感じたことがある。
 それは、男子ダブルスの決勝戦で、阿部勝幸選手(協和発酵)・阿部博幸選手(専修大)の阿部兄弟組対仲村渠功選手(シチズン)・井上哲夫選手(井上スポーツ)組の対戦のときだった。
 この決勝戦を会場の観覧席から見ていた私は、弟の阿部博幸選手が会心と思われるドライブやスマッシュを決めたとき、また中陣や後陣から威力のあるドライブやバックハンドのしのぎで得点したとき、博幸選手はラリーが終わるたびに両腕に力を入れて気合いを入れながら「ヨシ、この調子だ、ここに来たボールは今の感じでこう打つんだ」または「こう動いて、こういう感じで打つんだ。バックハンドはこうだ。この感じを絶対に忘れるな」と、何度も自分自身に暗示をかけるような感じでついに最後まで好調を維持して、見事に2年連続優勝を飾った。そのプレイを見ながら、わたしは自分も同じようにやった現役時代を思い出した。そして、このことは試合のときだけでなく、技術を早く覚えるためにも特に大事なことと強く思い、'78年の第2回目の作戦あれこれのテーマに決めた。

 高1のとき、いい感じで動けた足の運びを夢中になってやりフットワークを覚える

 特に私は大変不器用だっただけに、この気持ちを持ち続けて練習したことが上達に大いに役立った。特に強く印象に残っている4つのことを述べよう。
 1つは、恥かしい話だが私は高校1年の夏までフットワークの基礎となる、左右1本ずつのフットワークができなかった。バックからフォアへ動かされたときに、どうしても足の運びがうまくいかず打てなかったのである。そのために私はどれだけ先輩に"下手くそ"とシリを叩かれたかわからないぐらいだ。
 だが、その年の夏休みが終りに近いときだった。うまく動く先輩の足の運びを参考にして、フォアへ動くとき、振り切って戻るときに、右足を一歩踏み出してから膝のバネを使って両足を同時に思い切り蹴って、できる限り早く動き、十分な態勢でうつようにしたらやっとフォア側からうまく打てた。
 このとき私は心の中で"この足の運びだ"と叫んだ。そして、スムーズに動けた感じを忘れないように夢中になって動いた。それまで3本程度しか続かなかったのがすぐに20本、30本と自分でも信じられないぐらい動ける。今でも私がそのときフットワーク練習を夢中でやっている姿をはっきりと覚えているが、初めてスムーズに動けたことから雲の上に乗っているような気分で非常に嬉しかった。この動きを忘れてはいけない、今、体で覚えてしまうんだと思って、その後毎日自分から進んでフットワークをやった。この規則的なフットワークができるようになった直後から、不規則的なフットワークも動けるようになって、高1のとき全日本ジュニアへ愛知県代表として出場し、2年生のときのインターハイ3位への大きな足がかりをつかんだといえよう。

 高3のとき、いい感じで入ったドライブを夢中になって覚える

 またも恥かしい話だが、私は高校時代の終わり頃までドライブをドライブでかけ返すことができなかった。そのために相手に先にドライブをかけられた場合止めるしかできず、インターハイでは岡田選手(東山高)に、全日本ジュニアでは柏選手(高輪高)に、先にドライブで攻められた時つなぎのロングでしか返すことができず共にベスト16で敗れるという、非常にモロイ面があった。
 なぜドライブをドライブでかけ返すことができなかったかというと、回転が強くかかっているボールにドライブをかけるとオーバーミスをするような気がしていたからである。そう思い込んでいたために、ドライブマンを目指していながらドライブ対ドライブの練習さえしなかった。
 それが、全日本ジュニアが終わり、高校時代の全国大会がすべて終了した1月、気楽になった私は何気なくドライブ対ドライブの練習をしてみた。このとき、はじめのうちは打つときに逃げ腰だったことから、足、腰の構えが不安定になってオーバーミスを繰り返したが、ある程度の時間がたったとき「一度、ツッツキのボールをドライブかけるように、足、腰を安定させて打ってみたらどうかな?」と考えた。私は入るかどうかは半信半疑だったが、よく体に引きつけてドライブボールをツッツキボールと思って、思い切りドライブをかけた。そうしたら、回転が強くかかったそのボールは相手のコートに入ってからグーンと伸び、1発で決まった。そのときのボールには自分自身びっくりした。
 私はこのとき"この打ち方だ""ツッツキをドライブで返すときも、ドライブをドライブで返すときも、からだの使い方は同じなんだ""回転がかかっているからといって、けっして恐れてはいけない"ということを学んだ。また前途が明るくなった気がした。そして、このときの感じを忘れないように、腕や足、腰がクタクタに疲れるまでこの練習に打ち込み、翌日からもいい感じを忘れないように、ドライブ対ドライブの練習を毎日のように続けた。
 この直後から、試合でドライブで先に攻められても逆にドライブで攻め返せるようになって戦力が大幅にアップし、また恐さがなくなって気持ちに余裕ができ、2ヶ月後の高校生活最後の大会だった愛知県選手権の決勝戦で、全日本のランキング保持者だった速攻の田中英也(中京大、現田中スポーツ)選手を破って優勝し、自分の卓球に自信を持つことができ、大学1年生のときの全日本初優勝への大きな足がかりとなった。
 だが、だからといってドライブをドライブでかけ返すことは、ツッツキにドライブをかける要領でやればはじめから誰でもできるというものではない。そのことがコツにはなるが、私がすぐにできた裏にはかなりの基礎練習を積み重ねてきていたので、フォアハンドの基礎ができていたこと。もう1つは、ランニングやバーベルによるトレーニングをかかさず続けていたことから、基礎体力ができていたことなど、基礎がしっかりしていた裏づけがあった。よいドライブを身につけるためには、フォアハンドの基礎を身につけ、基礎体力をしっかり養うことを欠かすわけにはいかない。

 全日本男子複決勝で一発目のドライブの感じを忘れず初優勝を飾る

 私はこのようにしていろいろな技術を覚え、また試合をも進めてきたが、3つ目は試合から上げてみよう。
 試合で印象に残っているものはたくさんあるが、中でもコンディションがよくなかった昭和44年度の全日本選手権の対田阪登紀夫・今野裕二郎(早大)組との男子複決勝戦は、特に印象が深い。
 それは、このとき同じ会社(タマス)に入った伊藤繁雄選手と初めて組んだことと、男子複の種目の優勝経験がなかったので、何としてでも勝ちたかったことなどからである。試合の鍵は私達がどれだけドライブで攻められるかであった。しかし、大変不安だった。田阪選手、今野選手とは、全日本の合宿や早稲田大の練習場でたえず練習しており、サービス、レシーブやドライブ、また私達の攻め方、弱点等を全部といってよいほど知られていたからである。このようなことから、私はとくにサービスから4球目までの作戦と、どれだけフォアハンドで動けるかが勝負だと試合前に思った。
 試合は、伊藤選手のサービス、田阪選手のレシーブで始まった。このとき「とくに1本目思い切り動いて攻撃することが大事だ」と思った私は、田阪選手がフォアへ払う構えからバックに払ってきたのを、思い切ってフォアで回り込みからだ全体で思い切りボールに回転をかけてバック側へ攻めた。それに対して今野選手にミスが出た。このとき、まずまずのドライブだったことから私は「今と同じ気持ちを持って、今の感じを忘れないように打てば、相手を押す攻撃ができる。ヨシ、これだ、思い切りいこう」と自分に言いきかせた。フォアに払われたボールにたいしてもドライブで決め、いい感じを忘れないようにした。あるいは、中陣からいいドライブで攻めたあとも、いいバックハンドを振ったあともネットプレイをしたあとも、また得点の有・無にかかわらず「こうやって打てば入る」という感じをからだ全体に覚え込ませていった。そして、中盤までに絶好調に調子を上げ、私もそしてつられるように伊藤選手もドライブで積極的に攻め田阪・今野組にストレート勝ちした。
 この試合は私が、ゲームのスタートに、田阪選手のレシーブをフォアドライブで積極的に攻めて好スタートを切り一気に調子を上げて勝ったというよい試合ぶりだっただけに、初の全日本ダブルスを勝ち取ったこととあわせて今でも大変印象に残っている試合だ。
 しかし、私がこのようなよいプレイをすることができたのは、絶対に勝つんだ、絶対に負けられないんだと真剣に試合に打ち込んだときだけで、そうでないときはこのようなよい試合をすることは一度もできなかった。また、台についての練習だけではなく、トレーニングで体を鍛えて充実していたときだけだった。また、勝敗にこだわりすぎていたときはダメで、やはりよい試合は、心・技・体が一体となっていなければできない。次のことからもそれがわかると思う。

 コースを考えてやる素振りで調子を取り戻す

 '71年の9月に、北京で行なわれたアジア・アフリカ友好大会のときのことで、このときはバックハンドの調子が狂っていたため不調だった。
 このことの私の卓球は、フォアハンドドライブ主戦ではあったが、バックハンドもかなり使う卓球に変わってきていたので、試合でバックハンドが入らないと勝てず、またとくに攻めの速い卓球をする中国選手にはバックハンドが振れないとまったく勝てない。日本を経ったのが大会の五日ぐらい前で、向こうで眠らない夜が続いた。参加国が多く、実際にボールを打つ時間が2時間半ぐらいしかとれなかったので余計だった。
 そこで私は、狂っているバックハンドをよくするには素振りとトレーニングしかないと思い、ホテルの部屋の中や屋上で素振りとトレーニングを開始した。
 朝、屋上で30分の自主トレーニングを終えたあと、さらに日本から持ってきた5キロの鉄アレイを持って膝曲げ屈伸。モモ上げ。または、鉄アレイを持って横振りなど、足、腰を鍛えるトレーニング。それに調子が良かったときのバックハンドを思い出して素振り。李景光選手や郗恩庭選手などの中国の主力選手を想定しては、相手が強打で攻めてきた場合は「一歩さがってよく引きつける。クロスに打ち返すときはこうだ。ストレートへ打ち返すときはこうだ」と、何回も繰り返してはいい感じを思い出しながらフォームをつかむ。ショートで短く止められた場合を想定しては「中陣から前に動いて、右足をしっかり踏み込む。クロスへ返すときはこう。ストレートへ返すときはこう。スマッシュで返すときはこう」と何回も繰り返しては、いい感じをつかむというように、ただ素振りのための素振りをやるのではなく、対戦相手を仮想して素振りをした。
 このように実戦と同じようにやったことから、早くいいときのバックハンドの感じを取り戻し、足、腰にも粘りがでてきて、団体戦最終日のころには絶好調に近いコンディションに持っていくことができ、団体戦では中国を破り優勝。シングルスでも郗恩庭選手、河野選手を破って優勝するという良い成績を残すことができただけに非常に印象に残っている。このようにいい感じで打ったときのフォームをからだで覚えておくと、試合のときだけでなく、練習にも素振りによるコンディション作りをする場合などにも非常に役立つものである。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1977年4月号に掲載されたものです。
\この記事をシェアする/

Rankingランキング

■その他の人気記事

NEW ARTICLE新着記事

■その他の新着記事