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「作戦あれこれ」第106回 毎日のトレーニングが大切

 2月10~11日、山口県柳井市で毎年行なわれる西日本選手権に、今年も私は参加した。
 西日本選手権もシ―ミラー選手だけでなく、韓国、中国台北や国内の一流選手の参加が増え、年々レベルがアップしてきた。私の出場もこれで7度目。現役を引退してからはや11年が過ぎた。

 昨年のサヨナラパーティーで引退を表明

 実をいうと、私は「今年の西日本選手権に出場するかどうか」ずいぶん迷った。
 なぜかというと、私は昨年の準々決勝で永瀬選手に敗れたとき引退を考えたからだ。その理由は、試合に負けたことではなく、試合で全然燃えなかったためである。「ついに気力の限界がきた」と思った。そして、試合のウォーミングアップや、卓球に絶対に必要なランニングやトレーニング、フットワークの練習をする気力がグーンと薄れてきた自分自身に対し「選手として失格だ」と結論をくだした。
 私は以前から「十分な準備をしないようなら試合に出るべきでない」という強い信念を持っていた。私が昭和49年の全日本選手権シングルス3位を最後に引退を決意したのも「走る気力とフットワーク練習を行なう気力がなくなった」ということが大きな原因だった。
 単に出場するだけでも、技術さえあればある程度の成績は残せる。しかし「日本を代表するプレーをしようと思ったら、日本で一番がんばっていなくてはだめだ」と現役時代は強く思っていた。だからこそ「これだけやったのだから負けられない」と多くのタイトルを取ることができたのだ、と私は思う。特にランニングとフットワークは"卓球の命"と思っていた。
 そして、昨年の西日本選手権。「もう現役ではない」と思いつつも、私は「試合で燃えなくなった」と思い、招待選手のサヨナラパーティーの挨拶の中で、今年の西日本選手権の不参加をほのめかした。

 自宅にトレーニングルームを造る

 しかし、5月になって私はトレーニングを開始した。その理由は「バタフライ道場や、各地で行なう講習会で若い中学生、高校生にいい指導をするには、スポーツマンらしい体力の維持が必要だ」ということからだが、同時に37才という年齢を考えたとき「このままではダメになる」「もう一度体を鍛えなおさなければ手遅れになる」と危機感をもったからだ。そして「体力トレーニングによって体力、気力が回復したら西日本選手権に出場しよう」とひそかに考えはじめた。
 そこで私は、雨の日でもトレーニングができるようにと、思い切って自宅の一階の2部屋をぶち抜いて6坪のトレーニング専用ルームを造った。そして、その中に卓球台、バーベル、鉄アレイ、腹筋台、素振り用のラケットを揃えた。また、壁には素振りのフォームやウエート・トレーニングの姿が見られるように大鏡を取りつけた。

 毎日5キロ以上のランニング

 私は、朝、会社に行く前にこのトレーニングルームでウエート・トレーニングを3日に1回の割り合いで続けた。ランニングは毎日のように5キロ以上走った。雨が降った日も休まずに雨ガッパを着て走った。休日には1時間以上走るときもあった。地方へ講習会に行ったときも必ずジョギングシューズを持っていき1日1回は必ず走った。昨年の9月に模範試合で高知県の土佐清水市に全日本チャンピオンの斉藤選手と一緒に行ったときは3日間で約25キロ走った。毎日走る私を見た斉藤選手は"ミスターランニング"というニックネームをつけてくれた。そしてその結果、バタフライ道場で高校生のトップクラスと3時間ぶっつづけで試合ができるまでに体力がついた。
 自信をつけた私は、11月のはじめに西日本選手権に出場することを決めた。そして、正月休みも毎日8キロ走り込んだ。私が、このように走ったのは、何より試合のときに大切な「これだけやったのだから負けられない」という"ハングリー精神"が欲しかったからだった。

 指導しながら課題練習をする

 練習は、卓球レポートの原稿、指導に追われ、量、内容とも不十分だった。しかし、これは仕事のため仕方のないこと。そこで私は何とかその中で練習量を増やさなければならないと思い、指導のとき、中・高校生と一緒にトレーニングや素振り、空フットワークをやるようにした。フットワークの模範を見せるときも、試合のつもりで集中してやった。講習会の終わりに地元の選手と試合をするときや、伊藤繁雄選手と模範試合をするときには「これも練習」と思い、特にレシーブ、3球目攻撃の練習をするようにした。
 本来ならば、レシーブも3球目攻撃も十分な反復練習をしてこそはじめて試合で良いプレーができるものだ。現役の選手はそうしなくてはいけない。私は不十分な練習だったが、それでもある程度の感触はつかめた。

 自分に厳しくするため1人で調整

 私は昨年まではシ―ミラー選手と一緒に柳井市に入ったが、今年は同行するのをやめた。それは同行すると「シ―ミラー選手に日本でいい試合をさせてあげたい」と思い、つい彼の練習相手になってしまうからであった。初めの2~3年はそれでもよかった。しかし、最近はそのことが私が試合のときに燃えなくなる原因の一つになっていた。それで今年は「自分にも相手にも厳しくしなければならない」と思い、シ―ミラー選手と同行するのをやめた。そして、直前まで指導、原稿に追われていたものの、前日までにそれを終え、大会初日はダブルスをキケンし、母校の愛工大(名古屋)に寄って練習してから柳井に入った。
 そして、試合当日。昨年まではシ―ミラー選手と一緒に朝食前にトレーニングをしたが、今年は1人でランニング、ダッシュ、シャドープレーを軽くやって一汗流した後、朝食をしっかり食べて大会に臨んだ。
 試合は1年ぶりの大会出場であり勝負感が鈍っていたこと、練習不足のためグリップがしっくりせず、ドライブ、バックハンドともボールの走りが悪かったこと、など不安材料もあったが、5回戦までは無難に勝ち抜いた。

 トレーニングのおかげで準決勝進出

 そして6回戦。試合前からマークしていた社会人1年目の井坂選手(明大→日産自動車、'82年全日本学生3位)との対戦である。
 井坂選手は、ショートが大変うまく3年の全日学では渡辺選手(現協和発酵)に勝ったりもしている試合巧者だ。現在も若手のバリバリで練習十分。勢いがあった。それに対し、私のドライブ、ロビングは以前ほどの球の伸びがなく、ドライブをショートで止める技術とロビングをストップするのが実にうまい井坂選手のプレーに、1ゲーム目を先行されてしまった。「ここで負けるわけにはいかない」と2ゲーム目をとり、3ゲーム目も17対13とリードしたが、そこから1本攻めた次のボールを安全策をとってつないだために反撃され、いっきに17オールまで追い上げられてしまった。試合で一番危ない展開である。
 私は、このあと必死に攻撃して18本で逃げ切ったものの、17オールから全身全霊を出し必死に戦ったことと「ああいう試合をしてはいけない」と思ったことで、いっきに精神と体力を消耗させてしまった。
 このために、すぐに行なわれた準々決勝・韓国代表のシェーク攻撃の金選手と対戦したときは、疲れから相手のミスを待つプレーとなった。そのため、長いラリーが続いて疲れが増した。私は「優勝するためには不利だ」と感じたが「観客サービス」とも「このペースでもこの試合は勝てる」と考えてしまい、長いラリーの末、金選手のスマッシュミスに助けられて勝った。
 金選手との試合中、疲れてボーッとする時が何度かあったが、試合後は「トレーニングをやったおかげで勝てた」としみじみ思った。私の卓球は体力。現役時代は体力にものをいわせた連続強ドライブやロビングのしのぎで危ない場面を勝ち抜いてきた。今回も、もし早目にトレーニングに取りかかっていなかったとしたら、疲れから金選手に負けていただろう。あるいは、その前に井坂選手に負けていたかもしれない。

 激しいアンチ攻撃に逆転負け3位

 そして準決勝。永瀬選手との試合である。
 私は、'81年の準決勝でも対戦したことがあり、1勝1敗の対戦成績であった。永瀬選手は'77年全日本3位で、アンチ攻撃型になってからは東京世界大会代表になったり、実業団のトッププレーヤーとして活躍を続けている。だが、今年の私は疲れてはいたがファイトはあった。「勝てる」と思った。
 作戦は、昨年の試合を反省し、「1ゲーム目を先取して有利に試合を進める」「ドライブロングサービスを多く使ってアンチ側でレシーブをさせない」「前後にしっかり動くこと」などであった。
 本当をいうと、永瀬選手のように反転プレーなどのうまいテクニシャンに対しては、下がらず連続強ドライブで力攻めしてしまうのがいい。うまさは力に押し切られやすいものだからだ。しかし体力的に連続攻撃していく自信はなかった。そこで前途のような対アンチに重要なことを頭に叩き込んで体育館中央のコートに向かった。
 試合開始。私は積極的な攻撃とロビングによるしのぎで中盤に差しかかるまではリードした。が、中盤からアンチ攻撃をうまく使われて攻撃リズムが狂い16-19と逆転されてしまった。だが「1ゲーム目が勝負」と思った私は、ここからフォア前へのナックルに近い斜め下回転サービスを出し、思い切った3球目攻撃をして20オールとし、23対21で逆転勝ち。まず第1目標の1ゲーム目を先行した。
 しかし、2ゲーム目。コートをチェンジしたところ、光線の具合で永瀬選手がどちらの側で打球したか非常にわかりずらい。中盤からラバーをクルクル回してプレーされたために、台からの距離がつかめなくなりあっという間に引き離されてタイに持ち込まれてしまった。
 私は試合をしながら、どちらで打ってくるのかまったくわからぬプレーに、「どちらの面で打球するかわかるようにするための異色ルールはないのか」と思った。しかし、現在のルールでは、べつに永瀬選手は違反をしているわけではない。
 最終ゲーム。「用具は用具、粘り強く全力をつくして戦うしかない」と思って気をとり直し立ち向かった。しかし、前半10-8でリードしてチェンジエンドしたものの、逆のエンドになりやはり打球面がわからない凡ミスが多くでて逆転負けを喫した。
 試合後は、用具のことに不満もあったが、くたくたになるまで全力を出して試合したことへの満足感がより大きかった。

 今後もトレーニングを続ける

 敗因を考えると、永瀬選手がよいプレーをしたことにつきる。私の現役時代にはなかったアンチ面での台上レシーブや強打、そしてロビングに対するストップなどに私がついていけず、凡みすが多く出た。それに、永瀬選手は練習量が十分で体力的にも余裕があり、精神的にも安定して以前のようにロビング等に対してあせって打ちミスをするというプレーがなかった。
 私が、このような選手と対戦して勝つためには、なんといってもアンチ攻撃選手と練習して慣れていなくてはならない。そして、若手の伸びざかりの選手であれば、相手のアンチを連続攻撃で圧倒していくようなプレーぶりがいいだろう。
 また、ラバーのことに関していえば、現在の日本のルールでは永瀬選手の使った用具はフェアで何の問題もないが、国際ルールのうたう「はっきり違った色」の精神からすると、緑と黒のまぎらわしい配色は、今後改められ禁止されるようになるべきもの、と感じる。
 ともあれ、今回の西日本大会で、私はトレーニングの重要性を再び感じた。また、やればできると思った。現在の環境を考えると、私が今後自分の力を維持していくことはかなり難しいことと思う。しかし、今後も少しでも多くの若い選手に、現役時代に少しでも近い「長谷川式」のプレーをみせるため、トレーニングを続け、指導等を通じ、今後も練習を続けていきたいと思う。若いみなさんも、私以上に、トレーニングに練習にがんばってください。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1985年4月号に掲載されたものです。

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