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「世界一への道」荻村伊智朗④大選手の条件は、"気力・技術・体力・智力"

 この4拍子そろうように訓練すれば高校生で日本チャンピオンも可能
 「世界一への道」を示す故・荻村伊智朗氏へのインタビューも今回が最終回。30年前(『卓球レポート』1970年4月号)の話でも、その内容はほとんどそのまま現代に通用する。その荻村氏が青年時代に好んだ言葉が「後生畏るべし」(後進の者は努力しだいで将来どんな大人物になるか分からないからおそるべきである)。荻村氏に続く後進の出現に期待したい。

―荻村さんは、昭和29年のロンドン大会以来、去年のミュンヘン大会まで、すべての世界選手権を見ている唯一の日本人ですね。この15年間に多くの世界一流選手を、実際に対戦されたり、あるいは見たり話し合ったりして、知っておられる。どんなピンチに立たされても、絶対にぶるわなかった(かたくならなかった)選手はバーグマン(オーストリア→ポーランド→イングランド→アメリカ)だ、といつか語っていましたが、そういった古今東西の名選手のエピソードを聞かせてください。

 ●名選手でも、かたくなる者が多い

 絶対にぶるわなかったバーグマンとバーニヤ

 バーグマンは根っからのプレーヤーだ。同じプロスポーツをやる人でも、テニスのクレーマーみたいにプロモーターとしての道を歩もうとしたり、あるいは力道山のようにプロモーターとして成功するタイプもいるけど、バーグマンはチルデン(テニス)なんかと同じように、プレーヤーとしての一生をつらぬくという感じの人だと思う。
 バーグマンとバーニヤ(チェコ)ぐらいかな。絶対にぶるわなかった選手は。
―ということは、大選手でも、あとはぶるうことがあったということですか。
 そう。この二人は、最初から最後までファイトもあり自信もあり、技術的にもベストじゃないかな。だれに対しても、ベストの戦い方をしている。その選手の特徴を見抜いてね。バーグマンでいえば、田中に対してはショートを使うのがベストだと判断すればショートを混ぜて戦うというように。だれに対してもカットで戦うというような同じ戦い方ではない。常にベストの戦い方をした。
 バーグマンとは4回対戦し、バーニヤとは1回しか戦ったことはないが、その後何回も会って話してみても、バーニヤはバーグマンと並ぶ名手だと思った。

 中国では荘と張

 荘則棟(中国)は、最後でちょっとぶるう。ただ、あの人は若さもあったし、ぶるってから盛り返してきた。ぶるってる時間が短かった。しかし、相当ぶるう方じゃないかな。張燮林(中国)の方は、あんまりかたくならない。どっちかというと、リキみすぎるぐらいじゃないの。徐寅生(中国)は戦術・技術的には非常にすぐれているが、ちょっと気の弱いところがある。李富栄(中国)もいいけど、最後のところで考えが単調になる。してみると、中国では荘と張が、特に精神面ですぐれていたといえる。荘とか張の場合、試合のあと味にいやみがない。荘も最初(61年の北京大会、19歳)のころは、サービスもあんまりきれいじゃなかったし、あんまりよくなかったが。
 シェラー(西独)には高橋的なクールな試合運びのうまさというメリット(長所)があり、なかなかいいが、すぐあきらめるね、あの人は。ゴモスコフ(ソ連)には土壇場での意外性、果断なところがあるが、内容がとぼしい。ヨハンソン(スウェーデン)は思いきりの良さという良い面があるが、さっぱりしすぎる。最後のねばりがたりない―というように、これらの3選手は1960~70年代のヨーロッパの中ではすぐれた個性をもった選手だと思うけど、少し苦労がたりないんじゃないかな。
―荻村さんとか田中利明選手なども、大試合でぶるわない選手でしたけど、ぶるわないということは、その人の性質というか気質、それと練習によって得た自信、この二つがからみ合って、生まれるものでしょうね。

 気質+練習によって得た自信=ぶるわない

 そうだね。一つのボールに対して、いろんな打ち方の可能性がある。スマッシュするか、ドライブをかけるか、ショートするか、ツッツくか、カットするか、コースはクロスかストレートか...というように。いろんな可能性がある中で、どれを採るか、常に選択しなければならない。本当に十分に練習をやっていれば、その可能性の中で最も積極的な手を選ぶと思うけど、ベストコンディションでなければ、比較的、消極的な手を選択するものだ。しかし、いずれにしても、絶対的な自信をもてば、原則としてぶるわないということになるんじゃないかな。だから、常に絶対の境地と相対の境地を使いわけるというところへ最終的にはいきつくと思う。
 絶対の境地というのは"天上天下唯我独尊"(ゆいがどくそん)のような一つの宗教的な境地があって、たとえば田中教とかバーグマン教の神であるというような心境。つまり、卓球に関しては絶対者という心境だ。こういう絶対の境地に立つということは、必要な条件だと思う。すると、自分のやっていることは、すべて肯定的になる。試合としては1から10まで、ポイントしてもミスしてもいいのだということだから、ぶるう余地がない。なぜいいのかというと、なぜならオレがやったことだから、という心境だね。
 しかし、それ(絶対の境地)だけだと、独断におちいる。そこで、相対的な境地、別なことばでいえば、科学的な境地というか、常に比較検討し状況を科学的に分析し対策を考え出していく境地というものも必要だ。必要に応じて、相対的な境地を挿入できなければいけない。
 卓球で何かする瞬間の最たるものはインパクト(打球点、打球の瞬間)だ。このインパクトの瞬間に象徴される行動においては、すでに≪迷ったり、ぶるったりということのない≫絶対的な境地に立ち返っている。自分のいる場所が練習場であろうと世界選手権の会場であろうと、観衆がいようといまいと、問題にならない。同じことだ。要するに、自分のプレーをすることが最も重大なことなんだ、という考え方だね。

 絶対の境地と相対の境地の使いわけ

 それと合わせて、自分さえも一個の研究対象として常にコンディショニングを考え、自分自身を訓練し、その成果をチェックし、相手を研究し、将来の対戦相手を想定し、それに対して自分の訓練プログラムを修正したり発展させたりして練習していく。そして世界選手権にのぞめば、相手の技術的な状況、気質や気分、智力の程度と活発さ、体力の消耗度、気力のへり具合、気力の波―そういうものも把握して、ポイントの推移をも考えながら、そのつど変身していく。そういう相対的な境地に立った手法をからみ合わせていく。極から極へ移って中間的な心境がない。未熟な場合には中間的心境のみがあって、自信があるのかないのか、冷静な態度に徹するときがあるのかないのか、はっきりしない。
 観衆のムードまでも、自分のものにしてしまう。そういう計算と演技―しかも、それが本来そういうものが必要のない境地(絶対の境地)を堅持している上に立ったものである。それに、大観衆がコロッとやられてしまう。そういうものを何回も感じさせられているうちに、バーグマンが登場すると、あたかも大会は彼のためにあるような雰囲気ができてしまう。あるいは、バーニヤなり田中が登場すれば、ほかの選手が忘れられてしまうということが出てきて、ますます"後光効果"というものが対戦相手にまで影響していく。そういう過程をへて、大選手のイメージがつくられていくんじゃないかな。

 卓球の強さ=気力×(技術+体力+智力)

―大選手のイメージという話が出ましたけど、大選手の条件というのは、技術、体力、気力、智力。この4拍子がそろっていることじゃありませんか。
 そう思う。ふつう、心・技・体というけど、"心"(精神力)を気力と智力にわけて言う必要があると思う。智力とは英語のインテリジェンスで、これは全く未知の新しい環境に投げこまれたときに、どう対処して解決していくかという能力を基本的にはさすそうだ。だから、気力とは別のものだ。ただ、試合で智力を発揮させるのは気力だと思うけどね。気力がなければ、智力が十分には発揮されない。四つの条件の中で、一番大切なのは、気力でしょうな。気力の上に技術、体力、智力が乗っかって総合されていくというか。
 卓球の強さ=気力×(智力+体力+技術)というふうなのかな。
 いずれにしても、技術は最高の段階では最小の決定力しかない。技術の習得は卓球活動の最終目標にはなり得ない。技術もしくは技能は、もっと早くマスターできて、長くつづく。早く、合理的にマスターしてしまい、その他のものの完成をいそぐべきだろう。
 外国人の方が、おまえに勝ってやる、とはっきり言うね。試合前にわざわざ言いにくるものが多い。ぶるうクセに。また、外国人ほど「Are you nervous?」(ナーバス)と聞いてくる。記者も選手も(編集部注:nervousには「神経質の、興奮しやすい、おく病の、ひどくくよくよする」などの意味がある)。日本人は逆だね。「どうですか自信は?」という聞きかたが多い。ぼくはいつの大会だったか、時間のあったときに「nervousということばは何か」と問い返したことがある。要するに、そういう概念というか心理状態が、いくらことばの意味を説明されても全然わからないのだ、ということをわからすまでにはだいぶ時間がかかったが、それが記者仲間で評判になったらしくて、以後はそういう質問がめっきりへった。

 ●世界卓球界の技術的な流れ

 肩から先で打つピッチ打法ふえ、スケールが小さい


―世界卓球界の技術的な流れについて...。
 たびたび、ぼくだけでなく言われることだけど、ノドもと過ぎればあつさ忘れる、でね。現在の状況というのは、なんか低迷とまではいかないが、どうも一つ伸びきれないというところじゃないかな。というのは、やっぱり練習環境が日本の場合も意外と良いようで悪い。才能に恵まれたものが、全精力を数年間卓球に打ち込めるような環境がないし、選手自体も比較的常識的で、アッと驚くような努力がない。アッと驚くというのは、何年か表面に出ない努力があったのちに出てくる現象だから、そのうち、あるかもしれないけれども、今のところは日本でもないくらいだから、東南アジアには全然ない。ヨーロッパも居眠りをしている。アメリカは半分あきらめている。北朝鮮と韓国の事情は、ちょっとわからないけれども、中国が国際競技会に復帰するまで、その他の世界の内部から強力な刺激が生まれそうな感じが少ない。
 選手の気質や学園紛争問題とか練習環境のこともあるし、指導者の問題もあるけど、なんかいい刺激がないですかね。
 現在のルールでも、選手がもっとすばらしくなれば、十分に鑑賞に耐える卓球が生まれると思うけどね。攻撃と守備とが両立して。とにかく、現在の卓球は、おそすぎる。卓球がおそいということは、選手の動きがおそいことだ。ピッチがいくら速く見えても、球がのろいんじゃ、しようがない。たとえば、今野(早大)なんかのプレーだけど。しかし、今野とか井上(専大)とかのスタイルそのものには期待がもてるけどね。
 やっぱり、世界の技術の流れという大きなところから見ると、59年の用具制限(スポンジ禁止。ソフトラバーは4㎜以内に制限された)を境にして、卓球の傾向としては、ピッチ打法的なものに変わってきてるんじゃないかな。したがって、60キロとか50キロの体の質量がどれだけ速く移動して技能的に働くか、ということよりも、もっぱら肩からさきの部分に重点が移ってきているみたいだ。世界的な流れてとしてはね。
 ルールを改正して、もっと速い動きを人間に強制するような方向へいくか、あるいは破天荒なトレーニングをやって、足で打つような卓球がどんどん出てくるか。現在のルールだと、手がうまく動けばいいという方向に傾いたから、卓球のスケールが小さくなってきているように思う。軟式でネットが高くコートがせまい時分、スマッシュする方が損だった。ミスが出やすい上にイキ切れしちゃってね。ああいう方向に59年以来、近づいたとみている。かといって、ネットの高さを下げても意味はない。現実に中国では、一、二の選手は非常に力強い卓球をしたこともあるんだから、トレーニングによっては、いまのルールでも、人間の体を極限まで鍛えなければならないような状況は生まれ得ると思う。しかしこれは、選手が自覚しないかぎりは、強制はされてもやらないんですよ。したがって、このままでは、訓練関係も甘いものになっていくというおそれがある。
 しかし、最終的にルールのせいにするというのは、選手としては非の打ちどころのない態度とはいえないと思う。あくまで、自分の中に活路を求めていってほしい。そういう見かたからすれば、ヨーロッパの選手は全員ものたりないし、日本選手の場合は、気持ちはあると思うが、行動がともなっていない。

 ●将来は16~17歳で日本一が可能

 一流として活躍する年齢が上下に広がるべきだ


―最後に、未来論でしめくくってください。
 将来はどういう時代になるかというと、一流として活躍する年齢が上下に広がるべきだと見ている。上に伸びるのは環境の問題が非常に多くて、生活の問題とからみ合っているけれども、選手の選択しだいでは、卓球をやるためにはかなりいい環境が今後ますます整備されていくと思う。
 下へ伸びるのはどうかというと、これも環境の問題が大きいと思う。さきほどの四つの条件(要素)が一人の選手でそれぞれの頂点に達する時期がいつかということを考えてみると、従来、四つのピークが一致している例がきわめて少ない。たとえば、体力は17-18歳で絶頂になる。技術は22-23でその人のピークに達する。智力、気力は25-26で充実する。気力は17-18でも爆発的なものが出せるけどね。智力の場合は25-26、30すぎてもますます冴(さ)えていくということはあるわけですよ。
 この四つの条件を一致させるには、どこで一致させたらよいかというと、動かせるものと動かせぬものとがこの中にはある。動かせないものは体力、体力の絶頂期だ。水泳の短距離とか陸上の100mとかは、体力の爆発的な時期にしか、最高にはやれない。これは16-17歳からあり得るわけですよ。この時期(絶頂期)を25-26才にずらすことは無理だ。人間の自然の構造からいって。ただし絶頂期を延長するのは努力しだいでできる。だから、ほかの技術と智力の問題をここ(16-17歳)に合わせていくようにすれば、おそるべき選手が十代で生まれる可能性がある。いったん生まれてしまえば、コンディショニングで、その強さが10年はつづく。荘則棟が出たとき(61年の北京大会。19歳で男子世界No.1となる)、「この強さは10年つづく」と言ったら、報知新聞にたたかれたことがあったが、実際にそのとおりになった。スポーツマンの努力というのは、平均値への努力ではなくて、例外への努力だから、必ず例外は出てくるものですよ。

 体力のピークに技術・気力・智力のピークを合せる

 体力のピークとほかの三つのピークを合わせる問題だけど、これは環境の整備によるところが大きいと思う。技術の習得段階を年齢によってわけたり、学年によってわけたりする。"横割り方式"では、とても実現できない。それから、智力の訓練をその選手の個人的経験だけにたよっている場合も、これは実現できない。ところが、現在の大多数の卓球環境というのは、いま述べた二つの方式が多いんじゃないかな。
 技術のピークを早くするためには...。
 ①卓球関係者が戦型別練習システムの標準化、コーチの能力開発、視聴覚教材等の活用、等を通じて、その選手にとって必要な技術習得を年齢や学年に関係なく、どんどん進めていく。
 ②選手一人当たりの実質練習量をふやす。
 ③横割りの試合ばかりでなく、小中高校生の一般へのチャレンジの機会を増す。
 たとえば、こういったいろんな刺激によって、技術的なピークを早める
 智力の面は、囲碁や将棋の少年棋士が古今東西の名局を譜(ふ)で読んで先人の経験を学びとり、それが自分の将来の経験の先どりになる、ということが行われている。それと同じように、視聴覚教材等も活用して、指導者がおいおいに努力の訓練を行なえば、卓球に関するかぎりは15-16歳の少年が国際経験10年ぐらいの選手の経験と分別をわがものとしている―という結果が生まれると思う。強対で盛んに映画やミーティングをやったのは、その考えにもとづいている。遠征のあとに分厚い報告書をまとめたのも後世の参考に資する意味で、考え方としては同じだ。

 トレーニング・システムの標準化

 天分と努力が合致し、そういう環境しだいによっては、高校生の日本チャンピオンが出てくるはずだ。16-17歳から35-36歳までの選手が入りみだれて第1級の卓球を競い合う状態が生まれれば、ほんとうにおもしろいんだが、そういう時代を準備し、そういう時代にサービスする意味で、戦型別の練習システムの標準化とか、視聴覚教材等を活用しての知的トレーニング・システムの標準化とかは、ぼくらもやってみたい仕事だと思う。(了)

(2000年4月号掲載)

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