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「世界一への道」江口冨士枝 ―超人と呼ばれた選手―3

 大学生活のスタート
 ―もっと卓球がしたい。
 父の美容室で働きながらも、冨士枝は卓球への思いを捨て切れずに大学進学を志した。仕事をする傍ら夜は受験勉強。冨士枝はそんな毎日を重ねた。そして見事、大阪薬科大学医科コース入学を果たしたのである。
 これで思いっ切り練習できる。これからは、たくさんの大会に出てどんどん自分を磨いていくんだ。冨士枝の心の中は期待でいっぱいだった。
「こんにちはー。初めまして」
 入学するとすぐに冨士枝は卓球部を訪ね、即刻入部して練習に加わった。
 大阪薬科大学の女子卓球部は特に強いチームというわけではなかった。男子の方は比較的強い方であったが、女子卓球部はどちらかというと無名に近い存在だった。また、チームには部員の数があまりそろっていなかった。女子も男子も5~6人ずつと、やっと団体戦に出られるという程度の人数である。だが、みんな熱心に練習に打ち込む部員たちばかりだった。また、高校時代とは違い、チームには河村鉄夫コーチという熱心な指導者もいた。
 ―いい仲間に恵まれたなあ。
 冨士枝は誰にともなく感謝していた。卓球三昧(ざんまい)。そんな言葉が頭に浮かび、自然にウキウキと気分が浮かれてくるのだった。
 しかし、大学生活はそんなに甘くはなかった。朝から夕方まで授業はみっちり詰まっている。まして冨士枝が進学したのは、やがては人の命を預かる医科コースである。学生には多くの講義や実験が課され、授業に出席しているかどうかは厳しくチェックされていた。
「1年の江口冨士枝です」
「はい。本人ですね」
 授業の出欠に対するチェック体制は、厳重とも言えるものだった。担当教員による点呼ではなく、学校事務員が学生の顔を見て逐一チェックしていくのである。さらに、1日の授業時間そのものも長く、学生たちは朝から夕方までみっちり授業を受けたうえ、夜になっても実験が終わらないことがザラだった。
 とりわけ実験室で過ごす時間は長かった。これは医科コースの宿命である。ウサギなどの小動物の解剖実験を行ったり、様々な物質の化学反応を研究したり、実験室での実習は毎日継続して行われた。そして、1日の終わりにはレポートを提出する。学生たちは一人ひとり違ったテーマの研究をしているため、誰かに頼ることもできなかった。どんなに時間が遅くなっても、正確な結果を出せるまでは実験を切り上げることはできなかった。
 卓球の練習に多くの時間を使いたいと思いながらも、かと言って授業の手を抜くことはできない。冨士枝は美容院時代にもましてウズウズと卓球への渇望を抱く毎日だった。
 その10分が貴重
 しかし、冨士枝はめげなかった。
 昼から始まる実習は、早くとも夕方までかかる。だんだん薄暗くなってくる実験室で、冨士枝は必死に考えていた。どう考えてもおかしな結果が出る。どこか実験方法が間違っていたのだろうか。やがて部屋に明かりが灯(とも)り、自分の実験を終えた学生たちがどんどん帰っていく。
 練習できるのかな。練習どうしよう。みんなぼちぼち帰り出したのに、私はまだできてない。考えなきゃ、考えなきゃ...。
「あ、いかん。ここ間違ってた」
 またやり直しだ。ところがやっぱりうまくいかない。おかしいなと思ったら、また間違っていた。やり直し。
 もうこんなに暗くなってるっていうのに。他の部員はみんな練習してるっていうのに。焦る気持ちを抑えて実験を成功させ、ものすごい勢いでレポートを書き上げると、冨士枝はダッシュで練習場の講堂に向かった。
 急いで講堂に入ると、練習終了時間まではもう10分しかない。そんなこともよくあった。しかし、その10分が貴重だった。
 もっと長い時間練習をしたいのだが、それはできない。それならば、練習を渇望する気持ち、練習を求めるパワーをその10分に凝縮するしかない。時間は貴重だ。どんなボールでも大切にする。1本だってミスをしない。たった10分間の練習だが、冨士枝はその10分間に100パーセントの集中力で臨んだ。
 医科コースの学生にとって、十分な練習時間を確保することは難しかった。しかし、どんな状況に置かれても、冨士枝はそれを苦痛と感じはしなかった。戦後の苦しい時代、物の不足に対して工夫で挑んできた冨士枝である。時間の不足に対しては、練習に取り組む際の集中力をフルに高める。冨士枝は自然とそんな工夫をしていたのだった。そして、高校時代もそうであったように、学校での練習の後には上六の卓球場へ向かうのだった。もちろんランニングも怠らなかった。冨士枝のその地道なやり方は、やがて実を結んでいく。
 初めのステップ
 そんな冨士枝の一途(いちず)な姿を見て、他の部員たちが何も感じないわけがなかった。もともと練習熱心なメンバーたちだったが、さらに冨士枝の卓球熱が伝染した。
 そんな部員たちについて現在の江口冨士枝から聞かれるのは感謝の言葉ばかりである。
「みんなすごく熱心で、性格のいい人たちばかりでした。体があまり丈夫じゃないのにいつまでも練習に付き合ってくれる人、絶対に『疲れた』って言わない人、そんなメンバーに囲まれて私はとても幸運だったと思います。
 それから、男子がすごく協力してくれて。進んで練習相手をしてくれました。男子のボールを受けるのはとてもいい練習になりました。それで、私が1年生のときにインカレの団体戦で優勝できたんですよ」
 1952(昭和27)年、大阪薬科大学がインカレで優勝。それは誰もが予測しえなかった出来事だった。
和洋女子大、同志社女子大、当時卓球が強かった大学と言えばいくつかの名が挙がる。しかし、大阪薬科大はまったくの無名チーム。ふいに現れて優勝をさらったダークホースに、誰もが驚いた。
 現在の江口は振り返る。
「どういうわけか私たちが優勝して、大学の教授もびっくりしていたし、学長もびっくりしていました。『ええっ!?』とか『ほぉ~お』とかね。でも、私たち自身が一番びっくりしていたと思います。でも、だからこそプレッシャーも欲もなくて、ただプレーに集中できたから勝てていたのかなあとも思います。前評判もまったくなかったのにインカレで優勝して、本当に場違いな感じでしたね」
 しかし、その優勝は場違いなどではなかった。冨士枝は同年の全日本学生選手権大会の女子シングルスでも優勝。全国レベルの選手になったのである。
 この全国大会初優勝から、冨士枝は大きく羽ばたくことになる。
 高校時代の冨士枝は全国大会に出るとあがってしまい、まったく勝つことができなかった。しかし、美容院での見習いを経験する中で、卓球への渇望を激しく抱いてきた冨士枝である。大学に進んでからは学業と両立させながら、短い練習時間でフルに集中してきた冨士枝である。高校時代の冨士枝と大学生になった今の冨士枝では、精神面に変化が起こらないはずがなかった。
 すぐにあがってしまう冨士枝。競った場面で弱気になってしまう冨士枝。そんな冨士枝の悪いクセは、次第に影をひそめていった。限られた時間内で集中して基礎練習を行い、トレーニングでフットワークを高め、冨士枝は技術・体力のみならず精神的にも大きく成長していた。大学1年生の冨士枝は、夢中になって試合に没頭する集中力を身に付けていた。
 世界でやれ
「お父さん、勝ったよ」
 全日本学生で優勝し、喜び勇んで帰宅した冨士枝は、真っ先に父に報告した。よくやったでしょう、自分でもびっくりだよう。はしゃぐ冨士枝の言葉を聞きながら、父は静かに口を開いた。父から語られる言葉は、冨士枝にさらなる奮起を促すものだった。
「お前は学生で日本一になったんだな。お前が日本一になったんだということは認める。認めるけども、日本で一番になるっているのが目的じゃないだろう。同じやるんだったら、人に負けるな。やるんだったら、世界でやれ」
 父の言葉を聞きながら、冨士枝は少し不満に思った。せっかく全国大会で優勝したのだから、もっと喜んでくれてもいいのに。そんな思いが頭をよぎった。
 だが、父の言葉は知らず知らずのうちに冨士枝の中に焼きついていた。どうせやるなら人に負けるな。そのためには人一倍の努力をしろ。父の言葉はそのまま冨士枝自身の信念となって、後の世界チャンピオン・江口冨士枝を誕生させるのである。
 開花
 初めての全国優勝から年が明けた1953(昭和28)年、冨士枝は国際試合を経験する。出場したのは、東京で行われたアジア選手権大会。そこでは結果こそ出せなかったものの、フォアハンドを主体にフットワークをフルに使ったそのプレーぶりは、新しい日本の主流にのしあがろうとする気配を漂わせていた。
 そして春が来て、冨士枝は大学2年生になった。相変らず実験とレポートに追われる毎日である。しかし、冨士枝は練習中は決して一瞬も気を抜かず、貴重な時間を最大限に活用した。やはり練習内容は主に基礎練習。とりわけフットワークを自らに課した。
 現在の江口冨士枝は語る。
「私は基礎をバカみたいに一生懸命やってたから、いっぺん花が咲き始めたらしおれなかったんだなあって感じています。いっぺん花が咲き始めたら、そのまま勝つ習慣がついていったんですよ。でも、そうなったのはそれまでの基礎の積み重ねがあったから。基礎をどれだけやったかというのが、後になるほど非常に大事になってくるんですよね」
 そして、その1953(昭和28)年、今度は全日本選手権大会一般の部で準優勝を果たすのである。
 冨士枝のプレーぶりは力強く、だが、それだけにもろさも隠しているため一瞬も気が抜けない。サービスを出すと、3球目をスマッシュ。バックに返って来ても回り込んでスマッシュ。初戦からひたすら先制強打で戦った冨士枝は、気づけば決勝にまで残っていた。1戦1戦惜しみなくフットワークを使いスマッシュを放ってきた冨士枝の体は、かなりの疲労状態だった。だが、冨士枝の集中力はそれでも少しも衰えなかった。
 決勝の相手は渡辺妃生子、冨士枝と同じく、フォアハンドを主体に戦う選手だった。必然、2人の戦いは激しい打撃戦となった。プッシュとスマッシュだけで構成されるかのようなそのラリーは「シャモケン試合(シャモのケンカのように派手で決着が早い、短いラリーの打撃戦)」と言われた。2人のこの「シャモケン試合」は、最終ゲームを29-27でとった渡辺に軍配が上がった。
 こうして、優勝こそ逃したものの、江口冨士枝の名は日本中の知るところとなった。翌1954(昭和29)年に、冨士枝は初めて世界選手権大会日本代表メンバーとして日の丸を背負うことになる。
 初めての日本代表
全日本学生選手権大会優勝、全日本選手権大会準優勝、そうした結果を出した冨士枝にはうれしい使命が待っていた。世界選手権大会日本代表の選考合宿。1週間の合宿では毎日総当たり戦を行い、その結果によって代表選手が選ばれるのだ。6人の合宿参加選手から、日本代表は4人にしぼられる。しかし、そうした選考方法などの事情をあまり理解していなかった冨士枝は、ここでも無心に毎日の試合に没頭した。
 そして、この合宿で勝ち残った冨士枝は見事、日本代表選手となった。わき上がる闘志と同時に、冨士枝は重いプレッシャーも感じていた。
 世界選手権大会開催地はイギリスのウェンブレー。日本とイギリスは、第二次世界大戦中に互いに敵同士となって争った間柄である。すでに戦争は終わったとはいえ、両国の間にはギクシャクと反発し合う感情があった。それだけに、選手たちには「行くからには絶対に負けられない」という重圧があった。
 とにかくがんばらなければ。試合に勝つ、それ以外のことはどうでもいい。成績を挙げられなければ、日本にどんな顔して帰ったらいいか...。みんなの期待を背負って行くのだから、負けて帰ることは絶対にできない。
 合宿の間は日本選手団の後藤鉮二団長が選手全員を自宅に泊め、練習のみならず衣食住の世話までをしてくれた。こうしたサポートに感謝しながら、冨士枝も他の代表選手たちもプレッシャーに耐えながら寝ても覚めても卓球のことばかりを考え、トレーニングに取り組んだ。
 世界戦デビュー
 1954年第21回世界選手権ウェンブレー大会。当時の世界の卓球界は、1950年から1956年まで世界選手権大会6連覇の記録を打ち立てた無敵の女王ロゼアヌ(ルーマニア)の全盛時代であった。ロゼアヌはその華麗なカットで、これまで日本の強豪たちの挑戦を次々と退けていた。この大会の女子シングルスでもロゼアヌが優勝することになる。しかし、団体戦は違った。
 戦後という時代背景も手伝って、敗戦国の日本に対する周囲の風当たりは冷たかった。冨士枝たちが昼におにぎりを食べていると、パチッ、パチッとフラッシュがたかれる。新聞社が写真を撮っていたのだ。その写真は翌日の新聞に「日本人は石炭を食べていた」という記事で掲載された。のりを巻いた黒いおにぎりが石炭に見えたのだろうか。そうした偏見や反感の中にあって、冨士枝たち日本選手団の「絶対に負けられない」という気持ちはとても強かった。
 試合会場では、江口冨士枝や渡辺妃生子など、初めて世界戦に出てくる選手に、他国のチームは品定めの視線を送った。各国選手はお互いについての情報がほとんどない時代である。新顔のプレーを興味津々に眺める視線は、日本チームが決勝に進出するに及んで焦りの色を帯びていった。
 ヨーロッパのシェークハンドに対し、日本のペンホルダーは奇襲とも言えるものだったのだろう。ペンホルダーそのものが珍しいうえに、冨士枝たちはすごい攻撃力を持っていた。それはヨーロッパ勢にとって非常にやりづらい相手だった。ペンホルダー旋風。江口冨士枝・田中良子・渡辺妃生子・後藤英子のメンバーで臨んだ日本女子チームは団体戦で優勝を遂げたのである。
「日本、勝ちましたー!!」
 エリザベス女王の戴冠式の取材も兼ねてイギリスに来ていたNHKの藤倉修一アナウンサーが高らかに上げる声に、応援してくれていたスタッフや観客が「よくがんばったね」と涙を流している。感激屋の冨士枝の目にも、涙があふれて止まらなかった。
 それは、1952年第19回世界選手権ボンベイ大会以来、歴代日本女子チームにとって2度目のメダルだった。
 勝利の報告
 大会を終え、冨士枝たち日本選手団一行はロンドンにある一軒の日本人宅を訪れた。
「中村さんのおかげです!!」
 女子団体だけでなく男子団体でも優勝し、2つのカップを携えた選手団が訪れたのは、イギリス滞在中に何かと世話を焼いてくれた人へのお礼を言うためであった。
 当時のイギリスは戦勝国でありながら食料はまだ配給制度で、日本選手団も満足な食事ができなかった。郷に入れば郷に従え。そう観念して硬いパンやコーンフレークをかじる冨士枝に、日本風のおにぎりをつくってくれたり世話を焼いてくれたのが日本からイギリスに移り住んでいた「中村さん」なのである。
「本当にみんなよくカップをとってくれた」
 そう言って後藤団長とがっちり握手をする中村さんの恩に、冨士枝は感激を抑えることができなかった。
 ―中村さんのおかげで、そして後藤団長やみなさんのおかげで優勝できた。
 この勝利は決して自分たちだけで得たものではない。冨士枝は感謝でいっぱいだった。
 結局、男子団体・女子団体・男子シングルス(荻村伊智朗)と3種目に優勝し、日本選手団は笑顔の凱旋(がいせん)となった。冨士枝にも団体戦メンバーとして多くの称賛が寄せられるかと思われた。しかし、日本に帰った冨士枝を待っていたのは思いがけない批判だった。
(2002年3月号掲載)

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