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「世界一への道」深津尚子 ―60年代を駆け抜けたきら星―4

 いよいよリュブリャナへ
 昭和40(1965)年4月15~25日、世界選手権リュブリャナ大会。日本の目標は、団体戦での優勝である。男子は王座奪還を、女子は連覇をかけて臨んだ。
 北極回りの長い旅を経て到着したリュブリャナ(旧ユーゴスラビア、現スロベニア首都)は、とても美しい町であった。大会の会場となるスポーツホールは、開会直前に完成したばかりだという。
 試合が始まると、初出場の深津はびっくりした。世界中のチームが集まる世界選手権大会だけに、いろいろな国の王や王女なども出場していたのだ。深津はネパールの王女と思われる選手と対戦。彼女はしゃなり、しゃなりと優雅にプレーした。
「日本と中国が台頭する卓球というスポーツだが、世界中にファンがいることは喜ばしいことだ」
 深津はそう思った。
 中国の執念
 世界選手権リュブリャナ大会の団体戦は、予選リーグ、準決勝リーグ、決勝という方式で行われた。各試合とも4シングルス1ダブルスを行う。予選リーグ、準決勝リーグとも、日本と中国は違うグループだった。
 女子団体予選リーグ、日本はポルトガル、ベルギー、ガーナをすべてストレートで下し、順当に1位通過した。日本はメンバーを固定することなく、山中・関・磯村・深津の4人すべてを起用。その後の試合に備えて体力を温存することができるように、メンバーを入れ替えながら戦った。
 準決勝リーグになると、日本はエースである関・深津を起用。イングランド、ハンガリー、チェコを危なげなく退け、悠々決勝へ進出した。準決勝リーグのもう一方のグループは、中国が李赫男と梁麗珍という攻撃選手を起用し、強豪ルーマニアを抑えて決勝へ進出した。決勝はこの4選手(関・深津・李赫男・梁麗珍)の戦いになるものと思われた。
 順調に勝ち進んでいた深津は、休憩時間に中国の練習風景を見て、自分の目を疑った。
「私にそっくりなプレーをする選手がいる!」
 中国は明らかに深津を意識した戦型の選手を、練習パートナーとして連れてきていた。前陣速攻全盛の中国選手が、裏ソフトラバーを使って深津にしかできないはずのループドライブをかけている。深津対策用に育てられた選手だった。しかも、それは代表選手ではなく、練習パートナーとしての役割のみを担っている。あの、14連勝した中国遠征で、深津はマークされたのだ。マークするとなったら徹底的に行う中国の姿勢に、深津は戦慄(せんりつ)すらおぼえた。
 文化大革命を控え、中国の国を挙げての強化、勝ちに対する執念はすさまじいものだった。深津対策だけではない。例えば、日本選手団は選手、監督(選手兼監督の荻村伊智朗、兒玉圭司)と団長(山本弥一郎)を含めて11人であったのに対し、中国は28人。さらに、トレーナー、練習パートナー、調理担当なども帯同する大選手団だった。これだけの大人数を遠征させる費用だけを考えても、いかに中国政府が卓球に注力していたかがわかる。
 そして、女子団体決勝。中国はさらに勝ちへの執念を見せる。
 日本は準決勝リーグと同じく、1番・関、2番・深津のオーダーを採用した。一方の中国は1番・鄭敏之、2番・林慧卿のオーダーだった。準決勝までのオーダーとはがらりと変え、カット主戦型を2人並べたのだ。
 だが、このオーダーを見て、深津たちは首をかしげた。中国はどこまで研究してきたのだろう。林慧卿は、深津が中国遠征で苦もなく退けた選手だ。中国の真意を図りかねた。
 女子団体決勝
 女子団体決勝1番、関と鄭敏之の試合が始まった。深津を含め、多くが思っていた。
「関さんなら大丈夫」
 会場の雰囲気は独特なものだった。開催国ユーゴスラビアは、当時は中国に対する国民感情が良いとはいえなかった。そのため、観衆の80パーセントは日本に味方した。しかし、その応援がかえってプレッシャーとなったのか、関はスタートから硬くなってしまった。
 それに対し、中国の代表としての義務を背負う鄭敏之は、訓練された軽快なフォームで歯切れの良いカットを見せた。それは「連続パンチをはねかえした鄭のカット」と評され、中国は大きな1勝を挙げた。
 まさか、と思っていただけに、深津も焦った。2番、深津と林慧卿の試合が始まる。
 半年前の中国遠征では、フォア側に打ってもバック側に打ってもループドライブがよく効いて、高く浮いた返球にスマッシュを浴びせた相手だった。
「あの人には大丈夫」
 深津は少なからずそう思っていた。しかし、試合が始まると、そんな考えは吹き飛んだ。そこには、別人のような林慧卿の動きがあった。
 林慧卿は、先の対戦とラバーまで変えていた。前回は両面裏ソフトラバーだったのに、今回は両面同色のまま(当時のルールでは認められた)バック面が1枚ラバーになっていた。今では両面のラバーを異質にすることは当たり前だが、当時は非常に珍しいことだった。それも、半年の間にスタイルチェンジするとは...。深津の考えは甘かった。
 さらに、後になってわかったことだが、林慧卿のバックの異質ラバーは1枚ラバーではなく、ツブ高ラバーだったのだ。魔球を操るといわれた男子の張燮林もこのラバーを使っていたが、当時の深津たちはツブ高ラバーというものを知らなかった。そのため、予想外のボールを繰り出す「不思議な1枚ラバー」について、深津たちはこんなふうに考えていた。
「あのラバー、ふにゃふにゃしたり、変なボールが飛んできたりする。きっと、ゴムの質が悪いから、そんな返球になっちゃうんだろう」
 深津は初めて経験する「不思議な1枚ラバー」に苦戦した。ループドライブは、相手の下回転が切れていて効果を発揮する技術である。カットに変化をつけられた深津は、コーナーに打ち分けることができなくなった。
「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」
 動揺する最中に、さらなる技術が深津を襲った。第1ゲーム、出足で離された深津が、どうにかしてばん回した7対8の場面。「ここで林はフォア側からややシャガんだ姿勢からものすごい、切球サービスをはじめて使い」と当時の『卓球レポート』が報じるように、林慧卿は猛烈に回転のかかったサービスを繰り出し、深津は連続してレシーブミスしてしまった。この技術も初めて見るものであった。後にヨーロッパ勢が「投げ上げサービス」として発展させる原型ともいえるサービスだったが、初見ではとても対応できないほどの切れ味を持っていた。こうして、深津は16対21で第1ゲームを落としてしまった。
「関さんが負けて、私は捨て身でぶつからなくてはならなかったのに」
 第2ゲーム、深津は何とか食らいついて21対18でゲームを奪った。しかし、最終ゲームになるとまたもや変化に押され、点差を縮めることができない。12対20でマッチポイントを握られ、最後は林慧卿の返球がフォアにエッジボールとなり、万事休す。試合終了となった。
 そして、いよいよ追い詰められてのダブルスとなったが、深津と関はまったく良いところなしだった。11対21、14対21で完敗。
 中国は悲願の優勝をつかんだ。勝利の瞬間、静かに見守っていた中国ベンチがいっせいに飛び上がった。
 中国選手団の歓声が響く中、深津は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分のせいで日本女子の団体5連覇がかなわなかったのだ。今まであんなにたくさんの人にお世話になってきたのに、肝心なところで恩返しができないなんて...。みんなに申し訳ない。悔しい。
 後悔の思いだけが浮かんできた。
「どうすればみんなに償いができるんだろう」
 答えはすぐに出た。
「私にできることは、あと2年がんばって次の大会で雪辱することだ」
 必ず責任を果たそう。心に誓った。
 シングルス
 続く個人戦。深津は準々決勝まで順調に勝ち進み、鄭敏之と対戦した。団体戦の決勝で関を下した相手だ。
 鄭敏之の動きやカットの切れ味は、林慧卿よりも鋭かった。5ゲームスマッチで、あっという間に2ゲームを先取されてしまう。
「ああ、これで私の世界選手権大会は終わったな」
 深津は、個人戦に対しての執着は強くなかった。また、準々決勝には関も山中も残っていた。
「私が勝たなくても、先輩たちなら必ず優勝してくれる」
 最年少であり、個人タイトルへの責任があるとは思っていなかった。
 どうせ負けるなら、せめて悔いの残らないようにやろう。深津は思い切ってプレーした。すると、鄭敏之は勝ちを意識したのであろうか、ミスを連発してゲームオールとなった。第5ゲームは、そのままの流れで21対11。深津は無欲の勝利を飾った。
 準決勝は深津対山中の同士打ちとなった。
 序盤、深津は直前に鄭敏之のカットを散々打ち込んでいたせいで、山中の表ソフトに合わせることができない。またもや第1、第2ゲームを落とした。
「もし自分が負けても日本は決勝に進む。悔いがないようにやればいいや」
 またこんなことを考えていた。第3ゲームを取ってベンチに帰ると、2人の前に荻村が立っていた。
「2人ともいい試合をしているぞ。こういう舞台は2度とないかもしれない。悔いの残らない試合をするようにベストを尽くせ」
 ポンと肩をたたいてコートに送り出してくれた。そして、山中、深津の2人は、監督の期待を超える素晴らしい試合を展開する。
 それまでの深津は、試合に没頭してはいなかった。相手は先輩ということで、遠慮がちなところもあった。「私が勝たなくても山中さんが優勝してくれる」などという考えもあった。団体戦で負けたことで、心が沈んでいたこともあったかもしれない。
 しかし、よく考えると、次回も代表になれるという保証はない。これが自分にとって最後の世界選手権大会で、最後のゲームになるかもしれない。悔いのないプレーをしたい。深津は純粋にそう思った。
 直後の第4ゲームは21対17で深津が取り、最終ゲームも両者素晴らしいプレーをしてジュースに。サウスポーの山中はそれまでバックハンドサービスで深津のバック側を狙い、バックハンドの振れない深津はツッツキとショートでしのいでいた。
 が、最後のレシーブだけ、深津は勝負に出た。回り込んで強打。無意識のうちのひらめきだった。試合が終わって他の人に聞かされても、自分でも信じられなかった。
 レシーブ強打は山中のフォアサイドをノータッチで抜け、22対20で深津が勝利した。
「2人はまれに見る良い試合をした」
 荻村・兒玉の両監督は2人をねぎらった。
 準決勝のもう一方のコートでは、中国の林慧卿と李莉が同士打ちをしていた。2人の中国選手は、深津と山中の試合が終わるのを待つかのようにゆっくりゆっくりプレーした。そして、深津が勝つのを見届けた後、同士打ちを制して決勝に進出することになったのは、団体戦で深津に勝っている林慧卿だった。
 世界をつかんだドライブ
「今の君の卓球では、スマッシュしても抜けない」
 ベンチコーチの荻村との作戦で、決勝ではバック側一本槍にドライブで粘り倒すことを選択した。団体戦のとき、わかっていてもできなかったことだ。
 深津は徹底した。出足から無理な強打は避け、林慧卿のバックサイドめがけてドライブを打ち続けた。世界で、深津にしかできない戦術であった。
 林慧卿はリズムを乱された。
「私が逆の立場だったら、いやらしい選手だと思ったはず」
 深津はとにかく粘った。
「ああ、合宿での練習はこのためのものだったんだな」
 1000本ラリーを思い出していた。荻村の先見の明は素晴らしい。この決勝を予想していたかのようだった。
「腕が折れちゃってもいい」
 打てども打てども返ってくる切れ味鋭いカットを、深津はドライブし続けた。
 深津は、1点を取るのに、とうとう170本も粘った。
「こんなことするのは、これからの選手にはいないわよね」
『攻撃対カット。長時間攻撃ラリー』と評された。合宿のときには想像できない展開だった。
「文句を言ったこともあるけれど、あの練習をしたことが心の支えだった」
 第1ゲーム、第2ゲームを取り、深津は2-0とリードした。
 大学に入ってから、苦手のカット打ちを克服するために覚えたドライブが、今、世界をつかもうとしている。
 優勝と再出発
 だが、中国の意地は、そう簡単に勝ちを譲ってはくれない。深津はゲームオールに追いつかれた。しかし、深津と、深津のドライブにかけたベンチは作戦を変えなかった。
 深津のボールは、最後まで美しい弧を描き続けた。林慧卿のカットがアウトになると、21対16。ついに優勝を手にしたのである。
「チャンピオンになれて、こんなうれしいことはありません」
 大学3年生でつかんだ世界タイトル。しかし、周囲の祝福を受け、インタビューには答えるものの、深津は素直に喜ぶことはできなかった。
「私の優勝は、団体戦での敗戦の上にあるんだ...」
 優勝の代償はあまりにも大きすぎる。深津は後ろめたさを感じた。
「うれしいというより、大変なことになったという気持ちの方が強い」
 少しでも償いを果たそう。深津は、世界選手権大会での団体優勝を選手生活の最終目標としてがんばることを決心した。
 2年間
 世界選手権リュブリャナ大会の後の2年間は、深津にとって苦労の連続だった。
 世界チャンピオンであることのプレッシャー。プレッシャーが原因となっての敗戦。無理をしての故障。全日本選手権大会では決勝まで勝ち残ることなく敗退。深津は、精神的にも肉体的にもどん底まで落ちたようだった。
 それでも卓球を続けたのは「世界選手権大会の団体戦で優勝するんだ」という執念からだ。
 世界選手権ストックホルム大会が近づくと、強い深津が戻ってきた。昭和41(1966)年、深津は松崎キミ代以来2人目の全日本学生選手権大会女子シングルス3連覇を達成。そして、バンコクで行われたアジア競技大会では4冠。出場した種目すべてに優勝した。
 監督たちは、世界選手権ストックホルム大会を深津に託すことに決めた。ダブルスのパートナーは、世界選手権リュブリャナ大会女子シングルス準決勝で深津と大熱戦を演じた山中だった。
「自分たちの手で日本の優勝を勝ち取るんだ」
 監督は、2人の強い気持ちを知っていた。
 敵を失うことのつらさ
 打倒中国。選手たちは代表合宿に打ち込んでいた。
「少しでも速く、1センチでも深く」
 深津もドライブを打ち続けた。
 しかし、強化合宿も中盤にさしかかるころ、信じられないニュースが飛び込んできた。
「中国不参加」
 当時、中国は毛沢東主席の下で、文化大革命のまっただ中だった。政治運動が中国のスポーツ界を直撃。
「選手がかわいそう」
 素直な意見だった。自分も努力しているが、相手も同じようにがんばっている。前回の世界選手権大会で痛いほどわかっていることだった。中国の不参加を喜ぶ選手はいなかった。
「負けてもいいから中国と対戦したい」
 今までの練習も、すべては中国を倒して世界タイトルを奪取するためのものだった。中国選手の無念は計り知れないが、中国という強敵を失った日本もまた不幸であった。
 2年越しの涙
 昭和42(1967)年4月11日、ストックホルムで第29回世界選手権大会が始まった。
 日本は予選リーグ、準決勝リーグを1位通過し、危なげなく決勝に進出した。はたから見れば、日本の決勝進出は当然だった。
 このとき発表されていた世界ランキングで、深津は女子世界ナンバーワンに位置づけられていた。さらに、中国は不参加。世界選手権ストックホルム大会において、日本に敵は見あたらないともいえた。
 だが、勝利を義務づけられたともいえる立場となり、深津の緊張は極度に高まっていた。食欲が減退し、無理矢理食べたスパゲティが胃の中でまったく消化されずに残っていた。重苦しい空気が漂う。これで負けたらどうしよう...。決勝を前にして、深津の胸の内は不安でいっぱいだった。
 そのような空気のまま決勝に臨むことを懸念したのか、決勝の前、荻村は深津と山中の2人を呼び寄せた。そして、極度の緊張に支配されかけている2人に声をかけた。
「世界選手権大会という檜舞台で、大観衆の前で日の丸をつけて試合ができる自分を幸せに思え。楽に勝てる試合などない。苦戦は初めから十分に覚悟しろ。しかし、最後には必ず自分たちに勝利が訪れることを信じて全力を尽くせ」
 深津は不安を振り払った。
 女子団体決勝の相手はソビエト社会主義共和国連邦。トップ、山中とルドノワの対戦が始まった。前回大会では、日本が中国に負ける瞬間をベンチで見ていることしかできなかった山中は、荻村の言葉を強く受け止めた。
「日本代表になることは大変なことだし、団体で勝つ、日本が勝つということは、口では言い表せないくらい大きなことだ」
 2年間の苦しみを味わったのは、山中も同じことだ。山中はストレートでルドノワを退けた。
 2番は深津対グリンベルグ。
「ついに、来るべきときが来た」
 両者には実力差があった。深津のドライブは、リュブリャナから2年経過したこの大会でも外国選手にとって脅威だった。それに加え、2年間の思い。グリンベルグが深津に勝つ余地はなかった。
 深津・山中は続くダブルスも勝利。3-0で日本の女子団体優勝が決まった。
 この瞬間を、どれだけ待ったことか。
 日本から遠く離れたストックホルムの観覧席から、大歓声が上がる。ベンチでは荻村が飛び上がって喜んでいた。昔から感情を大きく出すことの少なかった深津も、このときばかりはロッカールームで感涙を流した。
 大会期間中の引退決意
 団体戦が終わると、深津はもう自分の役目は終わったと感じていた。
「優勝を取り返せた。もう引退だ」
 個人戦にはまったく執着がなかった。深津は「団体戦のことしか覚えていない」とも言う。
「個人戦は日本の誰かが優勝してくれるだろう」
 残る3種目、女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスで深津は準優勝に終わった。3種目とも決勝で日本選手に負けたのだ。
 あまり悔しくなかったのは自分でも不思議だった。
 4月21日、世界選手権ストックホルム大会は閉幕し、深津は引退した。東京に帰ると、深津はすぐに下宿を引き払って実家に帰った。
(2005年9月号掲載)
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