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世界一への道 伊藤繁雄 
球史を革新したドライブ強打王 4

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
 1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=小谷早知 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年7月号を再編したものです


専修大への憧れ

 このように目標を広島から西日本、全国へと広げつつあった伊藤の野心を、さらにかきたてる知らせが舞い込んできた。
 地元の大竹高校の生徒で三菱レイヨンによく練習にきていた広田佐枝子が、インターハイで準優勝し、その実績によって専修大学への推薦入学を決めたというのである。
 話を聞いた伊藤は、初めはただうらやましく思うだけだったが、次第にそれだけでは気持ちが収まらなくなってきた。
 三菱レイヨンでの練習に不満があったわけではない。それどころか三菱レイヨンに勤めた1年半の間、伊藤はつらいことなどほとんど感じなかった。卓球ができること、ただそれだけが喜びだった。このころの伊藤の卓球日誌には、
「夢ならどうか覚めてくれるな」
「俺はこんなに幸せでいいのか」
という言葉がしきりに出てくる。
 しかし、目標が高くなるにつれて、日々の練習に物足りなさを感じるようになったのも事実である。卓球で名前を残したい、自分の限界に挑戦したいという夢は膨らむ一方だった。
 専大といえば練習が厳しいことで有名で、世界で活躍する選手を何人も輩出している名門大学である。伊藤はかねてから、大学で卓球ができるなら「絶対に専大で」という憧れをひそかに抱いていた。
 専大に行けば、広田はますます強くなるだろうな。専大の厳しい練習を4年間辛抱すれば、人格的にも大きく成長できるに違いない。
 俺も専大に行きたい。あの広田が行けるのなら、俺だって無理ではないかもしれない。大竹高校のつてで、俺も「一緒に」推薦してもらえないだろうか。自分の身近な人がスカウトされるなどというチャンスは、もう2度と巡ってこないだろう。
 伊藤は早速、大竹高校の金川先生に相談した。
「先生、僕も広田のように専大で卓球をしてみたいんです。専大の監督に僕のことを話していただけないでしょうか」
「伊藤君のやる気はよくわかるから是非とも推薦してやりたいが、硬式の全国大会の実績がないとなあ。とにかく全日本でがんばってみることだよ」
 金川先生の言葉を受けて臨んだ、その年の全日本選手権。勝ち進んだ伊藤が対戦したのは、奇(く)しくも専大の強豪・宮之原選手で、試合展開は白熱した。この対戦を専大の四十栄監督と野平時期キャプテンが観ていた。専大ではすでに河野満選手をはじめとする優秀な高校生の推薦入学を決定しており、将来のレギュラー要員の確保はできていた。そのため特に伊藤を望んで採用しなければならないほどの必要性はなかった。
「あれが、うちに入りたがっている伊藤という選手らしいですよ。宮之原を相手にあそこまで善戦するのだから、まあまあ見込みはあるかもしれませんね」
「ううむ。広田佐枝子を採ることだし、伊藤も採って様子を見ようか」
「そうですね」
 こうして伊藤は、良いようにも悪いようにもとれる「まあまあ」という言葉とともに専大に滑り込む許可を得た。

家族会議

 しかし伊藤には重要な仕事が残っていた。家族を説得することである。山口の実家では父親が病気で臥(ふ)せっていた。伊藤を大学へやるような経済的余裕のないことは、十分過ぎるくらい分かっていた。
 しかし今回だけはどうしても引き下がれなかった。ここで妥協したら一生後悔することが分かっている。伊藤は考えあぐねた末に腹を決め、一生で1度の頼み事をするからと、郷里に電話をかけた。そして2年間で貯めた給料の貯金通帳を握りしめ、山口に向かった。
 一番奥の畳の間で車座になった家族に、伊藤は改まって正座し初めて大学進学の意志を打ち明けた。
「今日わざわざ集まってもらったのはほかでもないんだ。僕のわがままをどうか聞いてください」
 皆は伊藤に同情しながらも、容易に首を縦に振ろうとはしなかった。兄や姉も、早くから就職したり定時制高校に通ったりと、それぞれに苦労していた。
「今の安定した職場を捨てて、成功の保証もない卓球の世界に飛び込むなんてとんでもない。家族に迷惑がかかるでしょう。家が苦しいのを分かっていて、どうしてそんな勝手なことを言うの」
「卓球で自分の限界に挑戦する?何を言ってるの。私も絶対に反対だよ」
 姉たちの意見は厳しかった。
 兄たちは総じて伊藤の冒険心を認めてはくれたが、経済的に支える力がないからとため息をつくばかりだった。
 伊藤は通帳を傍らに、頭を畳にこすりつけんばかりにして懇願した。入学許可さえくれれば金銭的な支援は僅かでもかまわない、入学金や当座の費用は自分で何とかするし、学費や遠征費はアルバイトをして稼ぐからと、とにかく必死で頼み込んだ。
 2時間は押し問答を繰り返しただろう。大勢は明らかに伊藤に不利だった。これ以上頼んでもだめかもしれないと伊藤が気落ちしかけたとき、それまでずっと黙っていた母親が口を開いた。
「みんなが反対するのはもっともだよ。でもね、この子がこんなに真剣に頼み事をしたのは初めてだ。繁雄の気持ちはよく分かった。大丈夫、学費の分は私が稼ぐよ。私がもし倒れたら大学も辞めなくてはいけなくなるけど、それでもいいかい」
 63歳の母親の、子を思う愛情にあふれた言葉に、皆ははっと胸を衝かれた。この母親を前にしてなおも反対を唱えるものはなかった。
 伊藤はその夜、ふとんの中でむせび泣いた。拭っても拭っても涙があふれた。燃えるような激しいものが小刻みに震える体を駆け巡った。
 俺には2年のブランクがあるのだから、ほかの人が4年であげる成果を2年であげる覚悟で練習しよう。
 卓球よりもおもしろそうなことには絶対に近づくまい。
 海外遠征に1度でいいから行ける選手になろう。
 名を上げるまでは絶対に家には戻るまい。
 一番のライバルは母親だ。どんなに練習がつらくても母のがんばりにだけは負けまい。
 初心を忘れたら坊主頭になる。
 6つの決心がひとりでに浮かんできた。卓球日誌を引っ張り出してきてこの決意を書きなぐった。そして震える手で握りしめ、いつまでもただただ見つめていた。俺にはやれる、きっとやってやるんだと自分に言い聞かせて。

伊藤(前列左)を支えた家族と親戚


西日本選手権大会

 その年の西日本選手権大会の直前、伊藤を奮起させる記事が新聞に載った。上位入賞者の予想記事である。星野展弥(全日本チャンピオン)、渋谷五郎(同)、原田武、阿部好幸、国重博......。十数人の名が書き連ねてある中に、伊藤繁雄の名はなかった。全日本軟式3位、広島市長旗優勝といった実績がまるで無視されていたのである。
 伊藤は闘志をわき立たせた。三菱レイヨンに伊藤ありということを、今こそ思い知らせてやろうと意気込んだ。そして新聞を引っつかみ、三菱レイヨンの同僚に向かって宣言した。
「これを見てくれ。俺の名前がどこにも出ていない。もう頭にきた。今度の西日本選手権では絶対優勝して見せるから、月曜の朝刊を楽しみにしていてくれよ」
 初戦から決勝までの試合内容を、伊藤はよく覚えていない。それまで抱いてきた卓球への執着心、野心、闘志などが興奮状態の中で交じり合って爆発したかのようだった。どんな選手に対しても伊藤は無我夢中で攻めつづけた。そして準々決勝の阿部選手、準決勝の渋谷選手、決勝の星野選手を次々に打ち負かし、チャンピオンの栄冠を手にしたのである。翌日の新聞のスポーツ欄に伊藤の名前が大きく躍ったのはいうまでもない。

実業団時代

 伊藤の実業団時代を振り返ってみると、2つのことに気づく。卓球に対するがむしゃらな執着心と、周りの人々の温かさである。
 後年の伊藤が述懐するように、ニッタク時代に味わった卓球への飢餓感がなかったら、後に世界チャンピオンとして大成するまで努力しつづけることはなかっただろう。やりたくてもやれない辛酸をなめたからこそ、卓球ができる喜びが何十倍にも感じられ、練習に際して常に高い目的意識を維持することができたのだ。自分の生きた証を何かの形で残したいと願う気持ちは誰にでもあるだろうが、伊藤にとってその何かが卓球であることは、もはや疑いようがなかった。
 しかし、伊藤が卓球を本格的にやる道に進めたのは、彼自身の努力のみによるのではない。周囲の人々の温かい思いやりなくしては、到底なし得なかったはずだ。伊藤が卓球をやることを認めて送り出してくれたニッタクの同僚しかり、伊藤の手紙に心を動かされて三菱レイヨンに薦めてくれた先輩や友人しかり、末息子の願いを聞き入れ新聞配達や内職で学費を工面してくれた母親もまたしかりである。伊藤はこうした人々への感謝の気持ちを忘れることなく、すべて上達を目指す努力の原動力へと還元していった。
 これから大学でその才能を大きく開花させていくことになる伊藤にとって、この2年間の社会人生活がとてつもない重みを持っているのは確かである。次回へ続く)



Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。

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