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K.カールソン インタビュー 
「今、スウェーデンは また強くなって、 どのチームとも戦える という感覚があります」

 かつて黄金時代を築いたスウェーデンが、再び世界の舞台で輝きを放ち始めている。その中核を担う一人が、K.カールソンだ。熱い闘志とクールな戦術眼を併せ持つ彼に、キャリアの軌跡からスウェーデン復権の裏側、用具選びの哲学まで、余すところなく聞いた。

卓球との出合い

--卓球を始めたきっかけを教えてください。

K.カールソン 8歳の時に、友だちに誘われたのがきっかけです。それまではサッカーをやっていました。幼かったのでいろいろなスポーツをやりましたが、中でもサッカーが一番好きでした。しかし、卓球もすごく楽しかったので、友だちと一緒にやるようになりました。
 スウェーデンでは7、8歳くらいで始めるのが普通です。両親も卓球をしていましたが、母は地域レベルです。父は卓球についての考え方は悪くありませんが、腕前はそれほどでもありません(笑)
 それから、当時家族と住んでいたトロルヘッタンという町のいくつかのクラブで練習していましたが、小さな町なので、なかなかレベルの高い練習はできませんでした。そこで、私の両親が別の町のクラブに車で連れて行ってくれるようになりました。13〜14歳の頃には、3つのクラブを掛け持ちしていました。
 また、13歳の時にはカデットのナショナルチームのメンバーに選ばれ、その時に初めて選手になるためにはどれだけの練習が必要なのかを理解しました。

カデット時代のK.カールソン。2006年ヨーロッパユース選手権大会混合ダブルスで優勝した(本人Instagramより)

--プロ卓球選手になると決めたのはいつ頃でしたか?

K.カールソン プロを目指すきっかけになったのは、高校に進学するために家を出た時です。スウェーデンの高校は16歳からで、実家から3時間ほど離れたところに引っ越しました。スポーツに特化した高校で、他の選手と一緒にアパートに住み、勉強と練習をしていました。
 生活は、朝に授業を受け、昼食前に練習、昼食後はまた授業、そして、その後にもう一度練習というサイクルでした。スウェーデンのトップリーグに初めて出場したのは17歳の時でした。それまでは、2部のチームにいましたが、1部に昇格して、このまま続けていけばもっと強くなれるかもしれない、卓球を仕事にできるかもしれないと感じました。あの時が、プロ選手になる転機でしたね。
 このような成長の流れはスウェーデンの多くの卓球選手に共通していて、16歳前後で、より良い練習環境を求めて移動します。私と同い年のマティアス(ファルク)、アントン(ケルベリ)、トルルス(モーレゴード)もそれぞれ、自分の町から離れて、力を付けていきました。

フランスリーグからヨーロッパ最高峰ボルシア・デュッセルドルフへ

--プロ卓球選手としての最初の所属はフランスリーグでしたね。

K.カールソン 最初に所属したプロのクラブはフランスリーグのポントワーズ(パリの近郊)でした。家族的な雰囲気のクラブで、リラックスしてプレーできたので、初めてのプロのチームとしてとても良かったです。もし最初にビッグクラブで始めていたら、プレッシャーが大き過ぎたのではないかと思います。ポントワーズはキャリアのスタートにとても良い場所でした。
 このクラブで私は、フランスリーグとヨーロッパチャンピオンズリーグで2回ずつ優勝し、とても充実した3年間を過ごしました。
 その後、ドイツ・ブンデスリーガのボルシア・デュッセルドルフからオファーを受けました。私はこのオファーをとても誇りに思いました。ヨーロッパではデュッセルドルフは「ザ・クラブ」なんです。だから、契約のオファーをもらった時は本当にうれしかったし、誇らしくもありました。
 そして、何よりもうれしかったのは、そのクラブにティモ・ボルがいたことでした。彼は私と同じ左利きで、ヨーロッパの選手で、私の憧れでした。だから、彼と同じクラブでプレーできることが本当にうれしかったのです。

K.カールソンが入った2014年、ポントワーズはフランスPro Aで優勝した

--ボルはどのような選手でしたか、また、彼からどのようなことを学びましたか?

K.カールソン ティモから学んだことはたくさんありますが、特に感じたのは、彼の「人としての振る舞い」の特別さです。私がデュッセルドルフに入ったばかりの頃は、すごく緊張していて、何もかもが不安でした。でも、ティモは人柄も素晴らしく、誰に対しても親しみやすく、クラブに入ったばかりの私にとても優しく接してくれました。卓球以外の部分でのこうした振る舞いも、彼の大きな強みのひとつだと思います。
 卓球についても、もちろん多くのことを学びました。彼の卓球は、頭を使った戦術的なプレーで、気持ちを前面に出してパワフルに戦う私とはプレースタイルが異なりますが、大事な場面でのサービスやレシーブの選択は彼から学びたいことのひとつです。
 例えば、彼は9-9のような重要な場面でも新しいレシーブを試すことを恐れません。サービスについても同じです。とても自信に満ちていて、相手が何をしてくるかを知っているように見えます。実際には、彼がそうした重要な局面で、自信を持ってそれまでとは異なったプレーをするからこそ、結果としてそう見えるのだと思います。
 ボルシア・デュッセルドルフでは6年間プレーし、ブンデスリーガで3回、ドイツカップで4回、チャンピオンズリーグで2回の優勝を経験しました。

ブンデスリーガ2021/22シーズン優勝のボルシア・デュッセルドルフ
K.カールソンはチームメートのボルから多くを学んだ
(写真提供=Borussia Düsseldorf/Jörg Fuhrmann)

スウェーデン復活の裏側

--スウェーデン男子代表についての話を聞かせてください。スウェーデンは一時期、国際舞台での存在感がやや薄れていた時期もあったと思いますが、あなたの世代で復活を遂げました。このようなスウェーデン再興の要因は、どこにあるとお考えですか?

K.カールソン ワルドナー、パーソン、アペルグレンの時代の後は、次の世代がその責任を引き継ぐことがとても難しかったのです。というのも、彼らはあまりにも偉大でしたから。
 そうして、スウェーデンはしばらくはレベルを落としていましたが、私とマティアスはU21の頃から世界で活躍していて、ナショナルチームに入った時には、自分たちがナンバーワンになれると思っていました。私たちの他にそれほど強い選手がいなかったので「自分たちでもナンバーワンになれる」と感じられたことがとても大きなモチベーションになりました。もし、圧倒的に強い選手がいたら、私やマティアスはここまでモチベーションを持てなかったかもしれません。私たちはお互いにトップを目指して競い合い、切磋琢磨(せっさたくま)したことで2人とも強くなれたのだと思います。そして、私たちの成長はスウェーデンにとっても大きな意味がありました。アントンとトルルスも、少し遅れて同じように成長してきました。
 アントンは28歳、トルルスは23歳。僕とマティアスは今年で34歳だけど、ほぼ同世代と言ってもいいでしょう。だから、今、スウェーデンはまた強くなって、どのチームとも戦えるという感覚があります。

キャリアのハイライトになったパリ五輪

--パリオリンピックでは男子団体で銀メダルを獲得することができました。

K.カールソン パリオリンピック男子団体は、私のキャリアのハイライトのひとつになりました。
 準々決勝では、ボル、オフチャロフダン・チウを擁するドイツに3対0で勝ち、いい流れで準決勝の日本戦に臨みました。
 スウェーデンチームは私とアントンのダブルスと2番のモーレゴードが敗れて、0対2で負けていました。
 私は3番で戸上選手(戸上隼輔)と対戦し、0対2で負けていましたが、それは開き直ってリラックスするチャンスでもありました。もし、1対1で回ってきていたら、私ももっと緊張していたでしょう。彼は私よりも強い選手でしたが、相性的には悪くなかったので、あきらめずにプレーしました。
 彼はチキータが得意で、ラリーになってしまったら私にチャンスはありませんでした。そこで、私は短い下回転サービスを多用し、私の得意な台上の短いラリーに持ち込みました。そうして私の得意な台上からの攻撃の展開に持ち込むことができたのです。この試合に向けてしっかり準備してきたことが発揮できました。私の生涯のベストマッチのひとつだったと思っています。

男子団体準決勝の日本戦で0対2の劣勢からK.カールソンが反撃の突破口を開いた(写真提供=ITTF/ONDA)

--その後、4番でモーレゴードが篠塚大登に勝って、スウェーデンは0対2から2対2に追いつきました。どのように試合を見ていましたか?

K.カールソン 私が戸上選手に勝った時に「私たちは行ける!」と感じました。篠塚選手もいいプレーをしましたが、トルルスが勝つことができ、ラストはアントン対張本智和でした。
 ノーチャンスでしたね(笑)。最初の2ゲームで張本は強すぎました。アントンが張本と試合をするのは何度も見てきましたが、この試合はアントンがどうやったら勝てるのかまるで分かりませんでした。
 しかし、3ゲーム目からは「ニュー・アントン」でした。最初の2ゲームと同じ選手ではありませんでしたね。チャンスがあったら本人にも話を聞いてみてください。

--メダルが決まった時はどんな気持ちでしたか?

K.カールソン 思い出せないですね。本当にあの場所にいたのかな(笑)
 とても奇妙な感じでした。世界チャンピオンにもヨーロッパチャンピオンにもなったことがありますが、オリンピックのメダリストというのは特別ですね。

--決勝で中国に勝てば金メダルの可能性もありました。決勝にはどのように臨みましたか?

K.カールソン 私たちはとてもいい試合をしたと思います。準決勝の後、1日空いたのはラッキーでした。というのも、私たちは日本戦の後、誰も動けませんでした。1日のブレークがあって落ち着くことができました。それで決勝には再び高いモチベーションで臨むことができ、良いプレーができたのだと思います。
 結果は0対3でしたが、私とアントンのダブルスは馬龍/王楚欽に2対3、トルルスは樊振東に2対3、私は王楚欽に2対3でした。もちろん、まだ大きな差を感じますが、世界卓球2018ハルムスタッドの準決勝で中国と対戦した時は本当にチャンスがなかったので、その時に比べると差は縮まったと感じています。

パリ五輪の男子団体、スウェーデンは準決勝で日本を破り銀メダルを獲得した(写真提供=ITTF/ONDA)

木製ブレードを使い続ける理由

--用具についてお聞かせください。あなたは近年のトップ選手としては珍しく特殊素材を搭載していない純木製ブレードのコルベルSK7を使用していますが、なぜですか?

K.カールソン 私は古い人間なんですよ(笑)
 私は若い時からずっと木製ラケットを使ってきました。このラケットは私に必要なコントロールを与えてくれると感じています。スピードは特殊素材のブレードに比べると少し劣るかもしれませんが、その分、よりボールを感じて、コントロールができるのだと思います。打球感もすごく好きなんですよ。
 そして、今はディグニクス09C(フォア面)を使っていますが、スピードはラバーで補うことができます。だから、私には木製合板のブレードとディグニクス09Cがちょうどいい組み合わせですね。
 また、木製のブレードでも勝てるということを私が自分の手で証明したいという思いもあります。

--特殊素材のブレードを試したことはありますか?

K.カールソン 張本智和 インナーフォース ALCティモボル ALCオフチャロフ インナーフォース ALCなど、特殊素材のブレードを試したことはあります。ただ、調整には6カ月くらいは必要だと思います。今のようにWTTや世界卓球があると、十分な時間を確保することができません。
 1、2週間試しても、試合が来ると怖くなって戻してしまいます(笑)
 でも、たとえ他の誰が使っていなくても、私は今の用具にとても満足しています。

--バック面のラバーにはテナジー05ハードを使っていますね。

K.カールソン 私はプレースタイル的に、ブロックから攻撃につなげたいと考えています。バックハンドで一球ブロックしたら、次のボールはフォアハンドで攻撃したい。だから、ブロックがやりやすいテナジー05ハードはとても私に合っているラバーなんです。

--一般的には軟らかいラバーの方がブロックはやりやすいという選手が多いと思います。

K.カールソン 私は軟らかいラバーでブロックすると、相手に時間を与えてしまうと思います。スポンジが硬いテナジー05ハードは私のプレースタイル似合っているし、長く使ってきているので、完全な信頼を置いていて、自分の思うようなプレーがしやすいのです。

--フォア面のディグニクス09Cについてはいかがですか?

K.カールソン 今の卓球で重要な弧線を生み出すのに必要な粘着性があるので、フォアハンドには完璧なラバーだと思います。
 今は、用具に関しては選択肢は一つしかないですね。



「試合では何度も来てるけど、旅行で日本に来るのは初めてなんだ。日本では"ハラハチブンメ"は難しいね。おいしいものばかりだから」と、アニメで覚えたという日本語を交えながら、人懐こい笑顔で話す様子からは、スウェーデンの再興をけん引してきた「ファイター」の姿を想像することは難しい。
 しかし、ひとたびラケットを握れば、闘志あふれるプレーでチームを引っ張り、ダブルスではこの上なく頼れるパートナーへと一変する。それが、K.カールソンという選手だ。
 多彩な縦回転サービスと巧みな台上プレー、堅実なブロックからの豪快なフォアハンドドライブはまだまだ私たちを魅了し、世界の舞台で存在感を放ち続けるに違いない。


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(取材/まとめ=卓球レポート)

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