選手生活を電撃引退し、戸上隼輔(井村屋グループ)の専属コーチとなった上田仁。コーチとして初陣となった世界卓球2025ドーハでは、戸上の男子シングルスベスト8をベンチで支え、上々のコーチデビューを果たした。
「戸上の持ち味はキレ。だから(モーレゴードの)ビデオを見過ぎないよう伝えました」
--メダルを懸けたモーレゴード選手(スウェーデン)との準々決勝に向けては、どのような準備をしましたか?
上田 ヨルジッチ(スロベニア)に勝って全然終わりじゃないから、今日は今日、明日は明日でしっかり準備しようということと、戸上は男子ダブルスにも出場していましたから体力的にも気持ち的にも知らず知らずのうちに疲れがたまっていると思ったので、とにかくしっかり休むこと。それから、モーレゴードのビデオを見過ぎないようアドバイスしました。
--ビデオを見過ぎないアドバイスの理由を教えてください。
上田 例えば、選手時代の水谷さん(水谷隼/木下グループ)や岸川さん(岸川聖也/日本男子監督)はオールラウンドに何でもできたので、攻めの調子が良くなかったら守りにシフトする試合ができました。もっと言うと、水谷さんや岸川さんは、試合に臨むメンタルの準備ができていなくても、技術力がめちゃくちゃ高いのでなんとかできた。
--ある意味、シンプルですね。
上田 シンプルです。シンプルだけれど、シンプルが故に、やはり上に行けば行くほど捕まるので、そこをどう捕まらないで攻めきるかが、これからの課題でもあります。

「戸上が悪いというより、モーレゴードが一枚上手でしたね」
--モーレゴード戦に話を戻します。序盤は素晴らしいプレーでしたが、勝利には至りませんでした。試合を振り返っていかがですか?
上田 正直、試合前は勝てると思っていたんですよね。戸上は過去に数回モーレゴードと対戦していて勝ったことはありませんでしたが、内容は力負けという感じでは全くありませんでした。モーレゴードは戸上のボールを嫌がっていたし、実際に止まっていなかった。どの試合も、モーレゴードの巧みなサービスの配球でチキータを封じられて負けたという内容でした。
--戸上選手らしいすごいボールがたくさん決まっていました。
上田 持ち味の攻撃もよく決まっていたし、レシーブもうまくいっていました。

「負けた悔しさはすごくありましたが、前向きになれる試合でした」
--敗戦後、二人でどのような話をしましたか?
上田 最初は良かったのですが、途中から焦ってしまったことが大きな敗因でした。だから、「焦りはどこから来るんだろう」ということをじっくり話し合いました。
--戸上選手の様子はどうでしたか?
上田 もちろん落ち込んでいましたけど、男子ダブルスが決勝に勝ち残っていたことが大きかったです。本人も言っていましたけど、モーレゴード戦で全日程が終わっていたら、すごく悔しい気持ちで大会を終えるところでした。
--その男子ダブルス決勝では見事に勝利して金メダルを獲得しました。この結果についてはいかがですか?
上田 素晴らしかったですね。ただ、大会後に戸上といろいろ話しましたが、彼は「金メダルはもちろんすごくうれしいんですけど、モーレゴード戦の悔しさの方がでかいです」と言っていて、この言葉は、戸上のコーチである自分にとってすごくプラスになりました。

「僕が戸上のコーチになって約1カ月ですが、そのおかげでこの結果が出たとは全く思っていないです」
--男子ダブルス金メダル、男子シングルスはベスト8と世界卓球2025ドーハは戸上選手にとってはもちろんですが、上田コーチにとっても充実した大会になったかと思います。
上田 手応えと課題は見つかりましたけど、僕が戸上のコーチになって約1カ月ですが、そのおかげでこの結果が出たとは全く思っていないですし、思ってはいけないと思います。もし、そう思うのであったらコーチを辞めて選手に復帰した方がいい。
--今大会で見つけた戸上選手の手応えと課題について、差し支えない範囲でお聞かせください。
上田 課題としては、戦い方の幅を広げることと、自分の特徴をもっと深く理解して、その特徴をどうやったら最大限に生かせるかですね。
--ありがとうございます。あらためて、世界卓球2025ドーハは上田コーチにとってどのような大会でしたか?
上田 生涯忘れることのない大会になりました。選手ではないのに、こんなに緊張したりいろいろな考えが頭を巡ったりするということは、コーチという立場にならなければ分かりませんでした。だから、これまで僕を指導してくださった方々にいろいろな思いが芽生えた大会でもあります。選手時代は自分のために頑張っていましたけど、コーチは、回り回れば自分のためではありますが、前提として自分のためではありません。
--最後に、これからの抱負をお聞かせください。
上田 ロサンゼルスオリンピックの男子シングルスでの金メダルを大きな目標に掲げていますが、それは長期的な最終目標で、まずは、戸上が世界ランキングのトップ10に入ることが一番身近な目標です。そのためにはWTTのツアーの優勝がまだないので、まずツアー優勝を取りたいと思います。こうしたことを目標にして、継続して二人で頑張っていきたいと思います。
--上田コーチと戸上選手のこれからに期待しております。本日はありがとうございました。
上田 ありがとうございました。

つい最近までスポットライトを照らされる側の選手だった上田が、照らす側のコーチになり、どんな雰囲気でどんな言葉を語るのか興味津々で行ったインタビューだったが、上田は、まるでずっと前から戸上のコーチを務めていたかのように、落ち着いて客観的に大会を振り返った。
戸上は今大会の日本男子の中で大きな存在感を放っていたが、「僕のおかげとは全く思っていません」と言う上田の表情からは、謙遜ではなく、本当にそう思っていることが伝わってきた。コーチの資質の一つには献身が挙げられるが、それが上田に十分備わっていることを示す言葉だと感じた。
一方、戸上にとっても、インタビューで感謝を口にしているように、上田の存在は大きいだろう。つい最近まで同じレベルでプレーし、なおかつ自分よりも経験豊富な選手が、技術や戦術だけでなく、気持ちの面でも支えてくれることは、戸上にとって大きなアドバンテージになるはずだ。
緊張に震えながらも、戸上のすさまじいボールを目の当たりにし、自分の選択の正しさを再認識したという上田は、コーチとして上々のデビューを飾った。今大会で得たという確かな手応えと課題を糧に、これから戸上とどんな未来を描いていくのか。
二人の物語は、まだ始まったばかりだ。