選手生活を電撃引退し、戸上隼輔(井村屋グループ)の専属コーチとなった上田仁。コーチとして初陣となった世界卓球2025ドーハでは、戸上の男子シングルスベスト8をベンチで支え、上々のコーチデビューを果たした。
戸上の可能性に引かれ、選手からコーチへと立場を変えて初めて臨んだ大舞台で、上田は何を感じ、何を見いだしたのか。その心境と、戸上とのこれからについて上田が語ったインタビューを前編と後編の2回に分けて紹介する。
前編では、大会前の準備からヨルジッチ(スロベニア)との男子シングルス4回戦までを聞いた。
「いきなり新しいことを指導しても難しいと思ったので、話し合う回数をとにかく多くしました」
--世界卓球2025ドーハお疲れ様でした。上田コーチは、戸上選手の専属コーチとして世界卓球に帯同する直前まで、選手としてドイツ・ブンデスリーガでプレーしていました。選手からコーチへはうまく切り替えられましたか?
上田仁(以下、上田) 4月末まで現役で、そこから完全に戸上のコーチになりました。正式にコーチを始める前から戸上とはよく連絡を取り合っていましたし、前もって分かっていたことで「やるぞ!」と決めていましたから、切り替えは難しくなかったですね。
--大会に臨むにあたり、戸上選手とどのような準備をしましたか?
上田 コーチになったからといって、世界卓球に向けていきなり新しいことを指導しても難しいと思ったので、話し合う回数をとにかく多くしました。今、戸上が持っている力をどうすればもっと出せるようになるか。あるいは、持っている力にほんの少しプラスアルファするとしたら、どういうことならいけそうか。そうしたことを二人でよく話し合いながら準備をしました。
戸上が本来持っている良さが10あるとしたら、そこに僕のエッセンスが1でも加わればいい。それだけで相手がびっくりするくらい戸上の卓球が変わると思ったので、僕から何かを積極的に提案するというよりは、対話をメインに本当にちょっとしたことを準備しました。
--「ちょっとしたこと」とはどういうことか、具体的に教えていただけますか?
上田 戸上は世界トップのボールを持っているのにもかかわらず、まだ世界ランキングのトップ10に入っていません。彼が負けた試合を見返すと、本当に1本か2本の差なんですよね。じゃあ、その1本、2本をどう埋めるのかを考えたときに、コース取りや力加減、ボールの高さなど、本当にちょっとしたところにこだわりましたし、そうした準備期間を設けられたことは本当に良かったと思います。
僕は戸上の専属コーチでしたが、それにもかかわらず、事前合宿から僕を快く受け入れてくれた岸川さん(岸川聖也/日本男子監督)をはじめ、ナショナルチームのスタッフには本当に感謝しています。
--選手からコーチに転身して初の大会が世界卓球です。意気込みはいかがでしたか?
上田 すごくやる気になっていましたが、それを全面的に出し過ぎてはいけないし、出さないよう気を付けていました。
--どうしてでしょうか?
上田 戸上のポテンシャルを信じていたからです。コーチの僕が何を言っても、勝負どころで何をするのか決めるのは戸上です。あまり僕の考えを押しつけてしまうと、戸上の良さがなくなってしまう。そう思ったので、自分の色を出すのはできるだけ控えました。
この先、もっと打ち解けたりぶつかったりした先に、強めに自分の意見を通すこともあると思いますが、今回はスタートしたばかりです。先ほども言いましたが、戸上の10に、1でも0.5でも自分のエッセンスが加われば十分だと思っていたので、とにかく戸上を知ること、そして、どうすれば戸上の持っている力を引き出すことができるのかに集中していました。
「我ながら驚くほど緊張して(初戦の)前の日は眠れませんでした」
--それでは、大会についてお聞きしていきます。初戦の相手は、メキシコのマドリッド選手でした。初めてコーチとして戸上選手のベンチに入った心境はいかがでしたか?
上田 びっくりするくらい緊張しました(笑)。選手時代、自分の試合が終わって仲間のベンチに入ったことはありますが、当然ながら、それは仕事としてベンチに入っていたわけではありません。今回は仕事で、しかも、初仕事が世界卓球。我ながら驚くほど緊張して前の日は眠れませんでした。
自分が試合をするなら、前の日の夜にああしようこうしようといろいろ考えるんですが、自分が試合するわけじゃない。自分があれこれ考えても試合するのは戸上だし、自分にはどうにもできない。そう考えると余計に緊張してきてどうにもなりませんでした。初めての感覚でしたね。
--眠れないほど緊張したとは意外です。
上田 ただ、岸川さんや日髙さん(日髙達也/日本男子コーチ)、森本(森本耕平/愛知工業大学監督)、森薗(森薗政崇/日本男子コーチ)ら年代が近くて僕より先に指導者をしている方たちがいて本当に助かりました。「緊張しすぎ。お前がどれだけ頑張ってどれだけ心配してもどうにもならないから」とみんなが言ってくれて救われました。途中から、「初めてだから緊張するのは仕方ない」と思えるようになりましたね。
加えて、戸上にも助けられました。
--どう助けられたのでしょうか?
上田 コーチの自分が緊張していると選手にも緊張が伝わるから、絶対に緊張を悟られてはいけないと頑張ったんですが、そう思うとなおさら緊張してしまって。だから、「ごめん、緊張しないと思ったけどめっちゃ緊張してる」と素直に戸上に打ち明けました。
そうしたら、「大丈夫です。しっかり準備してきたんで自信あるし、行けると思います」って戸上が言ってくれて。コーチの僕が選手に勇気づけられて、「なんだこれ?逆だろ!」と思いましたけど(笑)。戸上には本当に救われました。
--緊張の中、戸上選手との初陣を迎えたわけですが、初戦は快勝でした。
上田 完璧すぎる勝利でしたね。ベンチから見ていると、戸上のボールの速さが尋常じゃなくてびっくりしました。「いやいや、そんな強く打たなくても抜けるから」という感じであぜんでしたね(笑)。
戸上のプレーに圧倒されたと同時に、戸上のすごいボールを見ながら「ああ、そうだよなあ。自分はこれに引かれて選手をやめてここにいるんだよな。自信を持っていいんだ」とあらためて気づかされました。そう思えて以降は、落ち着いて戸上のベンチに入れるようになりました。だから、戸上には、試合前の立ち居振る舞いとプレーの両方で救われましたね。
戸上は試合後にメディアのインタビューで「上田さんとの初陣だから完璧に勝ちたかった」とコメントしていました。得てしてそういう思いは空回りしやすいんですが、あの初戦はすごく自信を持ってプレーしていたので頼もしかったですね。完璧な船出になったと思います。
--続く2回戦、若手有望株の郭冠宏選手(中華台北)にも完勝でした。
上田 警戒していた相手でしたが、大会前の合宿からチキータだけでなく、フォアハンドでのレシーブを練習してきたので、それがうまく生かせました。練習したての技を実戦でいきなり使うのは普通だったら怖いものなのですが、戸上は変化を恐れないタイプなので、その良さが出ましたね。
この2回戦と1回戦はレシーブがうまくいきました。戸上の課題の1つはレシーブで、彼はチキータを多用しますが、チキータばかりだとどうしてもレシーブが安定しないし、単調になる。「戸上はレシーブができればもっと強いよ」というのは本人にいつも言っていることです。1回戦、2回戦はレシーブミスがほとんどなかったので、本人の自信にもなったと思います。
「(張本戦の)戸上の心情は個人的にすごく理解できたんです」
--そして、張本智和選手との3回戦を迎えます。同士打ちなのでベンチには入りませんでしたが、試合前はどのようなアドバイスをしましたか?
上田 やり慣れている相手なので基本的に戸上の考えを優先していいけど、絶対にゲームオールジュースになるつもりで臨んでほしいということを伝えました。あとは、自分が思う智和(張本)のちょっとしたくせとサービスの配球に困ったときのアドバイス、それと、精神論じゃないですけど、勝つ気持ちが強い方が勝つということ。これ以外は、何もアドバイスしていません。
--結果は、猛攻で張本選手に勝利しました。試合はいかがでしたか?
上田 強かったですね。成長したなと思いました。おそらく、いろいろな感情があってメンタル的に相当きつかったと思うんですよ。同士打ちということもあるし、「(戸上は)張本にだけ強い」と周りから思われていることは本人も自覚していると思うし、勝った後のことも頭をよぎったと思うんですよね。
そういった思いを抱えながら、つらそうに試合をしていたので智和も相当やりにくかったと思います。ですが、あそこで勝ち切れたことは大きいですね。
--張本戦に勝利後の戸上選手は、ミックスゾーンでもすごくつらそうに受け答えしていました。試合後、戸上選手にはどのように声をかけましたか?
上田 戸上の心情は個人的にすごく理解できたんです。もし、自分が戸上と同じ立場だったら、絶対に勝てなかったと思うんですよね。1番になりたくて卓球しているはずだけれど、相手は切磋琢磨している仲間であり、しかも日本のエース。これを勝ったとして、もしも次に負けたら「張本だったら勝ってた」と言われる。しかも、舞台は世界卓球。そうしたことが頭をよぎったら、自分だったらまず勝てない。しかし、戸上もそうした考えがよぎったと思いますが、勝ち切りました。それは、地力がついているということ。だから、戸上には素直に「地力がついたな」と言いました。
あとは、「自分のために頑張っていいんだよ」ということも付け加えました。戸上は自分が強くなりたいからドイツに行ったし、強くなりたいから僕と契約した。もちろん、日本のためとか勝った張本のためにとかあるけれど、そんなことは後回しで、自分のために頑張るのでいいんだと。
おっしゃる通り、戸上は智和に勝った後、報道陣に対して、まるで負けたかのようにつらそうに受け答えしていました。僕はずっと勝負の世界で生きてきましたが、勝ったのにあんなふうにインタビューに答えている人は初めて見たし、ある意味、すごいことだなと思いました。
--次戦に向けてはどのようなことを話しましたか?
上田 勝たなきゃとかそういうことは一切考えず、シンプルに1本、1ゲームを取ることを考えようと話しました。その積み重ねがあっての勝利ですから。
「目指すところはまだまだ先なのに、なんだかすごく感動してしまいました」
--そして、4回戦のヨルジッチ選手(スロベニア)との試合を迎えました。試合前の戸上選手の様子はいかがでしたか?
上田 大会に入って1番緊張していました。純粋に試合へのプレッシャーもあるし、「智和に勝ったからにはここも勝たなければ」というプレッシャーもあったと思います。
戸上はヨルジッチにブンデスリーガで3連勝しているんですが、全部ゲームオールジュースなんですよね。だから、試合前は「必ずゲームオールジュースになるつもりで試合しよう」とアドバイスしましたが、本当にその通りになったので「いや、本当にゲームオールジュースするなよ!」って思いました(笑)。ベンチの僕は心臓が飛び出しそうなほど緊張していましたから。でも、本当に良い緊張感の中、戸上のひらめきや思い切りの良さが凝縮された試合だったと思います。
--試合はゲームオールジュースで戸上選手が勝利しました。どのあたりが勝敗を分けたポイントでしたか?
上田 お互いが相手のプレーをよく分かっているので、相手のしてくることは頭に入っています。それを逆手に取るのか、それとも分かった上で真っ向勝負するのか、その選択を大事なところで迷わないようにとアドバイスしましたが、その判断が良かったと思います。
具体的なところでは、ヨルジッチは必ず勝負どころでバックハンドサービスを使ってくるので、それに対してどう待つか。思い切っていくなら迷わずチキータだし、いけなかったら相手に打たせるのも全然ありだからというアドバイスをしましたが、その判断が良かった。
それと、サービスです。戸上は縦回転系サービスが主体で、それはそれで効くんですが、逆横回転系サービスも出せないわけではないんです。なので、7ゲーム中のどこかで逆横回転系サービスを出してうまくはまれば、流れをガラリと変える可能性があるから取り入れてみようということで、大会前の合宿から取り組んでいました。逆横回転系サービスは時折使っていましたが、最終ゲームの7-9と追い込まれたところで、巻き込み気味の逆横回転系サービスを初めて使ってエースを取りました。
--それは上田コーチの指示でしょうか?
上田 僕の指示ではなく、戸上のひらめきです。次も同じサービスでエースを取って9-9になって、フォア前に来たバックハンドサービスを思い切ってチキータで行ったんですがミスして9-10、ヨルジッチがサービスをミスして10-10になりました。
この場面でどんなサービスを出すのか注目していましたが、ヨルジッチのバック前にサービスを出しました。あの試合でほとんど使っていないコース取りでした。「ここで出すか!」と思いましたし、すごく良い判断、良いひらめきで、戸上が試合に入り込めていることを実感しました。それでヨルジッチが不意を突かれ、戸上がフォアハンドをねじ込んでマッチポイントを取り返すと、最後はチキータ行くだろうなと思ったら、その通りにチキータで勝利を決めました。
--大接戦を勝ち切った瞬間、どんな思いでしたか?
上田 ひらめいて実行するのはすごく勇気がいることだし、実行したとして実を結ばないことも往々にしてあるのですが、ひらめきが見事にはまったので、これほど気持ちが良いことはないなと思いましたし、見ていて鳥肌が立ちました。
戸上にのしかかっていたプレッシャーも分かっていたので、そこから解放された彼の姿を見て、目指すところはまだまだ先なのに、なんだかすごく感動してしまいました。
(取材/まとめ=卓球レポート)




