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「作戦あれこれ」第22回 自分の主戦武器で戦う

 試合は「自分の主戦武器を活かして戦え」ということばがあるが、このことは非常に大切なことである。
 たとえば、ドライブマンであればできるだけフォアで動いてドライブ+スマッシュで攻める。ショートマンであればショート主戦でチャンスをつくる。カットマンであればカット主戦で戦う。

 だが、よく自分の主戦武器でない技術で戦ったり、あるいは相手の攻めてくるのをただ入れているというやり方をする人が多くいる。そして相手よりいい技術を持っているのに、力を出し切れず負けるという損な試合をする人が多くいる。
 今年の全日本の中にもいくつかあった。一般女子準々決勝の小野(第一勧銀)対横田(朝日生命)戦のときの横田がそうであった。小野が、横田の変化カットをドライブとツッツキでチャンスボールがくるまでよく我慢して粘ってから強打するうまい攻め方をしたこともあるが、横田は異質ラバーを使った変化が主戦武器なのに、ツッツキ合いになったときほとんどラケットの面をかえず小野に変化を落ち着いて読まれ、イボ高のナックルのツッツキを打たれ小野に敗れた。小野はどちらかといえば変化に弱い。もし横田が異質の特徴であるラケットの面を変え変化カットで粘っていたら、好調の小野といえどもスマッシュミスが出て、勝負は分らなかっただろう。
 女子決勝の小野対枝野(川徳デパート)戦の枝野もそうであった。試合は、同じモーションからうまくサービスを使い分けて枝野のドライブを封じ、先にドライブで攻めた小野の試合運びが光った試合であったが枝野の作戦はよくなかった。女子では抜群のドライブを持っていてしかもドライブが効いていたのに、そのドライブを使ったのは3ゲーム目の中盤あたりから。1、2ゲームは、ツッツキ、ショート、無理な強打と、自分の得意でない技術で落としたのが大きく、第3ゲームを取ったのみで負けた。フォアで回り込んで攻められるボールがたくさんあっただけに、枝野がもっと足を使って得意のドライブで攻めていれば、もっとおもしろい試合になっていただろう。策と決断力が悪すぎた。
 このように、自分の主戦武器を活かして戦わない場合、勝機を逃すことがよくある。

 それと、大事なのはコースである。私は、初めて海外遠征をし、北京でショートのうまい左腕の前陣攻守型の李景光選手と対戦した高3のとき相手のバック側へ力まかせにドライブをかけたために、李選手のうまいショートにはばまれて逆に前に止められて、台に寄せられたところを打たれて完敗したことがある。このように、いくら得意の主戦武器であるからといって、好きなコースにしか返さない場合相手に読まれて簡単に止められてしまいやすい。それどころか、うまい選手になるとそれを利用されて逆に攻めこまれることが多く、いくら自信のある主戦武器だからといっても、自分が打てるコースで一番効くと思われるコースに返し確実に点を取っていくことである。そのような戦い方をすればチャンスボールを作りやすくそのチャンスボールを思い切ったスマッシュを打つことによってミートがよくなり、また心に余裕ができ勢いに乗じることが多いものである。そのことをよく守ったのが優勝した河野であり、小野智であり、前原、大屋を破った内田(近大)である。
 その一人の内田対前原の試合を紹介しよう。
 内田は、前原のフォア側に小さく斜め下回転サービスを出す。内田のもっとも得意とする主戦武器は威力のあるドライブ。そしてドライブの引き合いであれば内田の方が強い。フォア前に出したのは3球目からドライブをかけやすいと思ったのだろう。ドライブマンが大事なところでよく使う作戦だ。前原はそれを嫌ってフォアへ払ってレシーブ。フォアに攻めてドライブをかけさせ、そのドライブボールをショートで一気にバックに攻める作戦を取ったのだろう。しかしフットワークのいい内田はフォアに飛びつきながら前原のミドルに強ドライブ。エンドラインぎりぎりのいいボールだ。前原は伸びあがってショートでバックに返す。だが意表をつかれたコースと深さで前原のショートが高い。
 内田はこのチャンスを逃さず、前に動いてバックハンドでクロスに強打。この内田の強打は、前原がフォアかミドルにきたら攻撃しよう、と待ち構えていただけに実に効果的だった。そのために前原はロビングで返球するのがやっとであった。そして最後の一打は、バック寄りに離れてスマッシュに備えている前原の逆をつくフォアに曲がるドライブで決めた。
 前原は内田のフォアに攻めて次をバックに攻める作戦は決して悪くなかったが、ショートが浮きすぎた。反対に内田はもっとも得意とするドライブを使い「自分の主戦武器を活かして戦え」という手本のような攻めと、1球の無駄のないうまいコースの取り方であった。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1977年1月号に掲載されたものです。
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