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「世界一への道」伊藤繁雄 ―球史を革新したドライブ強打王―4

 選手をやめる覚悟

 伊藤は入学するときに、

「2年遅れて大学に入る俺は、他の人が4年かかって挙げる成果を2年で挙げるつもりでやるんだ」と決意していた。その伊藤にとって2年生の東日本学生選手権大会は、一つの節目としての意味を持っていた。もしベスト16に入れなかったら、選手としてこれから大きく伸びる可能性は少ない、マネージャーになって部に貢献しようと覚悟したのだ。そして、自分に逃げ道を許してはならないと、このことをしっかりと卓球日誌に書き込んだ。

 伊藤の成功を願い、苦労して学費を工面してくれている郷里の家族に報いるためにも、何とかして結果を出したかった。そのためには試合前のオフ期間をうまく使って、効果的な練習をしなければならない。どうしたらランキング入りできるのか。伊藤は練習方法を必死に考えた。

 夏休みの暑い期間にあれもこれもと欲張っても、うまくいかないに決まっている。そこで伊藤は、練習のポイントを4つに絞ることにした。得意なサービス技術を高めること、3球目エースボールの威力を増すこと、フォア前レシーブを強化すること、そして確実なブロック力をつけることである。休み明けに部の練習が再開されてからは、内容をハードなものに切り替え、体調管理を万全にし、気合十分で試合を迎えた。

 東日本学生選手権大会の本番が来た。最初のうちは「もし負けたら」という懸念が拭い切れず、体が思うように動かせなかったが、ランキング入りを決めたとたん、足かせが外れたように気持ちが楽になった。

 準決勝では前年度全日本チャンピオンの長谷川(愛知工業大)に初めて勝った。1-2から盛り返しての大接戦で、会心のプレーだった。決勝では鍵本(早稲田大)に逆転されて敗れたが、負ければ選手をやめるという一大決心をもって臨んだ伊藤にしてみれば、東日本学生第2位は十分に納得できる結果だった。

 その後の大会でも伊藤は好調で、全日本学生選手権大会では3位に入り、全日本選手権大会では男子シングルスでランキング10位に、混合ダブルスで3位に入賞した。この年から始まった全日本選手権大会団体の部には、木村興治(早稲田大OB)、三木圭一(中央大OB)と「強化対策本部A」というチームを組んで出場し、優勝した。

 全日本選手権大会の表彰台の最上段に上がったのはこれが初めてで、

「2位や3位ではこの爽快(そうかい)感は味わえない。やっぱり、一番高いところに上がってこそ本物だ」と実感した。

 凱旋団を迎えに

 この全日本選手権大会は世界選手権大会の代表選考の意味も持っており、全日本選手権大会2連覇の長谷川、ベスト4入賞の河野、鍵本らは当然のように選ばれたが、伊藤は枠から漏れた。しかし、これにはあまりショックを受けなかった。むしろ、専大でともに練習に励んできた河野、同じ学生である鍵本や長谷川に、世界の大舞台で活躍してほしいと応援する気持ちの方が大きかった。

 スウェーデンのストックホルムで開催されたこの年の世界選手権大会には、文化大革命のために強豪中国チームが出場しなかった。日本はライバルの不出場で方向を見失いかけたが、荻村監督の指示ですぐに目標を「全種目制覇」に切り替え、1日に8時間から12時間もの練習に励んだ。

 大会本番、日本はその強化合宿で力を付けた若手の活躍もあり、破竹の勢いで勝ち進んだ。男子シングルスでは長谷川が優勝、河野が2位になり、他種目でも女子シングルス、女子ダブルス、混合ダブルス、男女団体で世界の頂点に立った。実に7種目中6種目で日本勢が1位になったのである。中でも専大の選手は大活躍だった。

 日本で知らせを聞いた仲間は、みな飛び上がって喜んだ。むろん伊藤も例外ではなかった。朝から走り回って、日本チームの快挙を報じる新聞を買い集めた。

「やったな、あいつら。すごいぞ」

 同じ釜(かま)の飯を食った仲間たちの成功は、自分のことのようにうれしかった。

 選手たちが凱旋帰国した4月29日、伊藤たちは羽田空港に集まった。各代表の大学のOBやOGも大勢駆け付け、お祝いの横断幕が何枚も掲げられた。伊藤は目立とうと、先頭で部旗を担いだ。準備は万端である。お祝いムードでいっぱいの仲間とともに、伊藤は選手たちがゲートに現れるのを、今か今かと待ちうけた。

 第2の誕生日

 先頭を切って姿を見せたのは、長谷川だった。彼の顔を見た、そのときである。伊藤の体を、何か電流なようなものが走った。頭をガーンと強く殴られたような衝撃を感じ、長谷川意外の選手の顔が目に入らなくなった。周りの歓声やざわつきも、まったく聞こえなくなった。

 新・世界チャンピオン、長谷川信彦の表情は、世界の頂点に立った者としての輝きに満ちていた。まるで、世界が自分を中心に動いていると誇示しているかのように、伊藤には感じられた。自信にあふれて仲間の歓迎に応える長谷川の顔が、目に焼き付いて離れなかった。

 長谷川が世界チャンピオンで河野は世界2位、そして俺はただ出迎えに来るだけ...。そんなばかなことがあっていいのか。

 俺は今まで何を浮かれていたんだろうか。

「宮城(きゅうじょう)の北 枢地(すうち)に立ちて

礎固(いしずえかた)し 我等が大学

質実(しつじつ)は姿 真摯(しんし)は心...」

 ゲートの前では、専大の校歌の斉唱が始まっていた。それぞれの選手の大学の校歌を歌って戦績をたたえるのが、世界選手権大会から帰国した選手団への慣例になっていた。いつもなら率先して大声を張り上げる伊藤だったが、このときばかりは歌どころではなかった。

 歓迎会が終わっても、選手や他の仲間たちはまだ歓談を続けていた。しかし、伊藤はさっきからの異常な興奮で話をするどころではなく、みんなの輪からそっと離れた。そして、わき目も振らずに電車に乗り、一人専大の体育寮に向かった。

 寮に着くと、伊藤はボールをいっぱい入れたかごを抱えて、道場に駆け上がった。当然のことながら誰もおらず、中はひっそりとしていた。ついさっきまでお祝いムードの中にいただけに、伊藤の心はその静けさに痛いほど引き絞られた。

 伊藤はただ一人、ボールを上げてスマッシュを打ち始めた。渾身(こんしん)の力を込めて、何球も何球もたたきつけた。

 長谷川の顔を見たか。自分が世界の中心にいると言わんばかりの、あの顔を。

 俺は、長谷川のように世界のトップに立つことを、真剣に目指して練習に臨んだことがあったか。

 長谷川にも河野にも、今はまだ分が悪いが、決して追いつけないことはない。いや、追い越すことだってきっと可能なはずだ。

 長谷川は世界1位で河野は2位。でも、俺は二人に勝ったことがある。

 東日本学生選手権大会で2位になったくらいで母さんに恩返しができたと思うなんて、とんでもない。俺は母さんの半分も苦労していない。母さん、悪かった!

 俺は、今日この日で生まれ変わるんだ。今までの甘い自分と決別して、二度とこんな屈辱を味わわなくてもいいようにするんだ。

 4月29日を、伊藤繁雄の第二の誕生日にしよう。

 浮かんで来るさまざまな思いを、すべて声に出してボールにぶつけた。疲れて腕が上がらなくなると鏡の前に立ち、自分の姿をにらみつけて、再びやる気を引き出した。道場に何時間いたのかは分からない。恐らく2時間以上は打ち続けていただろう。やっと我に返ったとき、伊藤は自分がこれまでとはまったくの別人のようになっているのを知った。もやもやとした鬱憤(うっぷん)は晴れ、心は澄み切っていた。

 新しい練習計画

 伊藤は、それまでの8×3方式(練習8時間、睡眠8時間、その他で8時間)を改めることにした。長谷川に勝つには、最低でも彼の2倍は練習やトレーニングをしなければならない。長谷川の練習時間は恐らく正味5時間、トレーニングは1時間くらいだろう。それならばと伊藤は、練習を10時間、トレーニングを2時間以上やろうと決めた。しかもこれはあくまで最低ラインで、食事と授業以外の時間もずっと道場で過ごすことにした。常に卓球のことを考えていられるようにするためだ。

 しかし、三日坊主とはよく言ったもので、新しい練習方式に変えてから3日目に、早くも疲労のために、気持ちが萎(な)えてしまった。練習とトレーニングをそれまでの2倍にするという過酷なメニューに急に移したのだから、当然といえば当然である。しかし伊藤はここであきらめたりはせずに、4月29日の卓球日誌を持ち出して来て決心を思い出し、自分を奮い立たせた。

 2週間が経った。あまりにハードな練習内容に体がついてこられなかったのだろう。血尿が出た。さすがの伊藤も、これは無理をしすぎたかなと思った。これでは世界の頂点に立つ前に、自分の体が持たなくなるかもしれない。しかし、伊藤はここで思い返した。

 これで動けなくなってしまうようなら、自分にはそれだけの能力しかなかったのだとあきらめよう。そんな程度では、世界のトップを狙うなど、夢のまた夢だ。

 伊藤はどうしても耐えられないと思うようなときでも、常に道場にいて卓球に対して高い意識を保つというリズムだけは崩さず、卓球からの逃げ道を自分で閉ざした。

 そうしているうちに吹っ切れたのだろう。体質が変わったかのように、つらい練習も大して苦しいと思わなくなった。

 こんな格言がある。

「心が変われば 態度が変わる

 態度が変われば 行動が変わる

 行動が変われば 習慣が変わる

 習慣が変われば 人格が変わる

 人格が変われば 運命が変わる

 運命が変われば 人生が変わる」(心が変われば人生が変わる/ナポレオン・ヒルより)

 たいていの人はある程度決心を固めても、それが習慣として定着しないうちにやめてしまう。大きな結果を残せるかどうかは、決心してから習慣と呼べる段階にまで到達できるかで決まる。習慣を変えることさえできれば、最終的に人生を変えることは比較的容易になるのだという。

 2000年のシドニーオリンピックで金メダルを獲得した女子マラソン高橋尚子選手の監督小出氏も、これに近いことを述べている。

 普通の人は、8割しか力を出していなくても、もう限界だと思ってそこで努力をやめてしまう。ところが高橋選手は違う。周りの目からすると普通の2~3倍の努力をしているのに、自分ではまだがんばり切れていないと信じ、さらなるトレーニングに励むというのである。自分で自分の能力に限界を設けてしまえばそれを超えることはできないが、矛盾を矛盾と思わずに立ち向かえば可能性は無限に広がるという、伊藤の言葉がここでも裏付けられるように思われる。

 アジア選手権大会

 新しい練習方式が習慣化したことで、関東学生選手権大会ではシングルス、ダブルスともに優勝した。そしてその実績を買われ、シンガポールで行われるアジア選手権大会への追加出場が認められた。入学前からの目標の一つだった海外遠征が、ようやく実現したのである。

 本大会ではシングルスの準々決勝で、前年のアジア競技大会優勝者、金忠勇(韓国)と対戦し、2-3で敗れた。1~2ゲーム目を先取したのにもかかわらず逆転負けしたのは、暑い国で大会日程をこなせるだけの体力が不足していたのが原因だと思われた。

 最大の敗因はスタミナ切れだったのだが、もう一つ思い当たることがあった。それは、自己管理の甘さである。試合会場があまりに暑かったため、伊藤は炭酸飲料をがぶ飲みしてしまった。適度な水分補給はもちろん大切だが、試合直前に飲みすぎるのはいただけない。試合で勝つためには、自己管理もおろそかにしてはならないことに気づかされた。

 体力不足や自己管理の甘さに足元をすくわれたこのような経験は、トレーニングや栄養摂取の重要性にあらためて気づかせてくれたといえる。

 一方で、この大会では得るものも非常に大きかった。強敵を相手に2ゲームを奪ったことは、自分の卓球が外国の強豪選手に対しても通用するのだということを確認させてくれた。技術力はあるのだから、今のフォアハンド主戦の卓球スタイルのままで、スケールを大きくすれば強くなれる、そう思わせてくれる局面が多々あった。

 それまでの伊藤は、「専大を制する者は世界を制す」という部訓をひたすら信じ、世界レベルを視野に入れた練習に取り組んできたのであったが、外国人選手の力を直接に感じたことはなかった。今日のようにテレビ放映がされていたわけでも、交流試合が頻繁に行われていたわけでもなかったからである。ただ、長谷川や河野など、世界で活躍する日本人選手と自分を比べ、世界レベルとの距離を推し量るしかなかったのだ。

 伊藤はこのアジア選手権大会では、団体戦メンバーになれなかった。長谷川、河野、鍵本らメンバーが苦戦を強いられているのを、ただ見て応援するしかなかった。このとき頭に浮かんだのは、1年生のころに聞いた、ある先輩の言葉だった。

「あなたたちは世界選手権大会に出るのが目標でしょう。でもね、個人戦に出られるだけで満足するようでは、専大の選手としては失格よ。団体戦の主力メンバーに選ばれないで個人戦に出るくらいなら、棄権しなさい」

 かつて世界選手権大会の団体戦の主力だった先輩の言葉だけに、かなり重みのある言葉ではあった。しかし、2年前の伊藤には半信半疑だった。日本の代表として世界選手権大会に出られるとすれば、それだけですごいことである。団体戦に出られなかったら棄権するなど、極端な話だと思っていた。

 しかし、アジア選手権大会で団体戦の応援をしていると、俺だったらあんな相手すぐに倒してやるのに、という気持ちが今にも爆発しそうになった。各国の精鋭たちが威信をかけて闘うのが、団体戦の醍醐味(だいごみ)である。日本の代表として国際試合に出るなら、絶対に団体戦メンバーにならないと意味がないと思った。あの先輩の言葉は、決しておおげさではなかったのである。

 初の海外遠征は伊藤のやる気をますます高めてくれた。

 あの4月29日以来、それまでに輪をかけたような苦しい練習に励んできた伊藤だったが、アジア選手権大会で自分の目指すべき卓球のスタイルと目標達成のための課題を明確に定めることができた。スタイルと課題が定まったのだから、あとは迷うことなく、がむしゃらに卓球に向かうのみである。

 少しでもいい方法を思いついたらすぐ実行しようと、ベッドの枕元に

「思い立ったが吉日」

と書いた紙を貼って、怠けそうになる自分を叱咤(しった)激励した。

 昭和42年度 全日本選手権大会

 伊藤は、大学3年の全日本選手権大会にベスト8入りを狙って臨んだ。そしてランキング決定を切り抜けてからは勢いに乗って調子よく勝ち、とうとう決勝戦にまで進んだ。対戦相手は長谷川か河野になることを予想していたが、逆のパートからはこの二人を破って、社会人の木村が勝ち上がってきた。伊藤は前年のランキング決定戦で、彼に負けていた。

 世界選手権大会で大活躍した学生二人が敗れてしまったのである。あとは自分しかいない。ここで負ければ、今年の学生は駄目だということになってしまう。

 いよいよ決勝戦を迎え、意を決してコートに出て行くとき、伊藤は木村に

「木村さん、よろしくお願いします。今日は去年の恩返しをします」とあいさつした。

(2001年9月号掲載)
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