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「世界一への道」深津尚子 ―60年代を駆け抜けたきら星―2

 失意の夏
 昭和36(1961)年、高校2年生の夏を迎えた深津は、かなりの実力を備えていた。中学時代に城殿から受け継いだサービスの巧みさや、レシーブ、スマッシュの技術。高校に入って高橋の指導によって学んだショート。ツッツキの巧みさも際立っていた。これらの技術力に加え、松井の下での激しい練習で培った精神的な強さが上乗せされ、深津は「超高校級」の能力を秘めているといわれるほどだった。主な得点パターンは、スナップを利かせたサービスと3球目スマッシュ。ピッチの速いショートも活用していた。
 深津は、練習時からストレート打ちを多くこなしていた。一般的には、基本練習はフォアクロスで打ち合うことから始める。しかし、深津はストレートから打ち始めることになっていた。ボールを様々なコースに打ち分けることで卓球台を広く使い、非力さをカバーしたかったからだ。この結果、深津は攻撃型に対しては絶対の強さを見せ始めていた。
 しかし、深津の戦型には天敵が潜んでいた。カット主戦型だ。
 ピッチの速さ、台上技術の巧みさで勝負していた深津は、攻撃型の選手に対してはもちろん、一枚ラバーを使う選手に対しても優位を保っていた。
 しかし、相手が卓球台から距離を取って戦うタイプだと、とたんに持ち味が半減してしまう。しかも、非力な深津の打ったボールは威力に欠ける。カット主戦型にとって、深津は非常にくみしやすい相手だったのだろう。
 この年のインターハイ、深津はシングルスの初戦で、カット主戦型に敗退した。
 このときばかりは、深津は卓球をやめたいと思った。桜丘高校の卓球部員が帰省できるのは年に2回、盆と正月だけである。深津は大会後すぐに帰省し、母親の元で失意の夏を過ごした。
 体力不足
 カット打ちができないのは技術的な問題だとしても、不振の原因は一体何か...?これには、指導者たちも頭を悩ませていた。そして、深津に問いただすと、「体調が悪いんです」とようやく原因を口にした。すぐに病院に連れて行くと、医者はこう診断した。
「肺を患っているかもしれません」
 深津は、勝ち気を外に出さない代わりに、弱気も決して人に見せなかった。体調が悪いことを隠し続け、大会に最後まで出場したのである。
 検査を受け、過労が原因であることもわかった。こうして、深津はしばらく自宅で療養することになった。
 スポーツ選手ならば、体力は必要不可欠である。ところが、深津はというと、腕立て伏せができず、ランニングは人についていくので精いっぱい、柔軟体操も苦手であった。
 体調を崩し、深津は少しでも体力をつけようと心がけた。過労の原因は、インターハイ前に行われた2カ月にもおよぶ合宿である。深津の体力では、合宿中の練習に耐えられなかったのだ。
 そこで、深津は「練習に耐えられる体をつくることが先決」と考え、食生活に気を配るようにした。栄養バランスを考え、よくかんでたくさん食べる。当然ともいえるようなことだが、深津らしい、深津なりの努力であった。
 やがて、結果は出た。1年で体重が10キロ増え、練習に耐える体力もパワーも、少しずつついていったのである。
 ストレート勝ち
 中学校時代の顧問の城殿は、深津が自宅療養していると聞き、心配でたまらなかった。しかし、1カ月の自宅療養を終えた深津は、本来の実力を取り戻していった。
 復帰してすぐ、深津は国民体育大会の少年女子の部に出場した。1カ月間のブランクはあったが、実力を発揮した深津に敵はいなかった。また、対戦相手にカット主戦型が少ないという幸運もあった。愛知県が優勝を決めるまで、深津は1ゲームも落とさなかった。
 そして、2カ月後の昭和36年度全日本選手権大会。ジュニア女子の部で、深津はまたもや1ゲームも落とさずに全国優勝を決めたのだった。
 人事を尽くして天命を待つ
 高校3年生の夏、いよいよインターハイである。
 前年の団体戦準優勝メンバーがそのまま残っており、桜丘高校は優勝候補の筆頭に挙げられていた。メンバーは勝ちを意識し、硬くなっていた。
「これが最後だ。自分の高校生活はこの日のためにあったんだ」
 そう考えると、異様な緊張感は免れなかった。しかし、試合に臨むには平常心が必要だ。深津は心の中で「人事を尽くして天命を待つ」と唱えていた。
『人事を尽くして天命を待つ』
 これは松井が好んだ言葉だ。「人としてやれるだけのことをやり尽くし、その結果はただ天命に任せる。事の成否はともかくとして、とにかく全力を尽くす」ということを表したものだ。
「今まであれだけつらい練習をしてきたのだから、大丈夫」
 深津はまさに天命を待つ心境だった。
 しかし、メンバーたち全員がそのような気分でいられたわけではない。むしろ、極度の緊張状態であった。
 準々決勝、桜丘高校は精華女子高校と対戦した。精華女子高校は団体戦メンバー4人のうち3人が1年生で、桜丘高校の勝利は間違いないと思われた。深津が前半で2点を取り、桜丘高校は2-1とリード。後半で1点取れれば勝ちである。ところが、4番、5番の雲行きが怪しい。深津は「まさかそんなはずは」と最後まで信じたが、結局2-3で桜丘高校は敗退した。
 このショックは大きかった。敗戦を引きずり、女子ダブルスは準々決勝で負けた。がっくり肩を落としていると、高橋にこう声をかけられた。
「お前たちはあれくらいの力しかないんだから、残る試合を思い切ってやれ」
 すると、意外に気持ちが楽になった。深津は翌日のシングルスに全力を尽くすことを誓った。
 さて、「人事を尽くして天命を待つ」の他に、松井が好む言葉がある。
『事之未成、小心翼々
 事之将成、大胆不敵
 事之既成、油断大敵』
 勝海舟の言葉だ。試合では大胆不敵でなければならない。しかし、深津たちは天命を待つ心境になりきれておらず、また、大胆不敵な態度でなかったのかもしれない。勝利を確信して臨んだ鹿児島インターハイだが、どこかでわずかに歯車が狂っていたのだろう。
 無敵のシングルス
「どんな相手だったのか、あまりはっきり覚えていない」
 女子シングルスで、深津はあっという間に決勝に進出した。それは、対戦相手の印象もおぼろげなほど、圧倒的な快進撃だった。
 準決勝を終えた深津は隣のコートに目をやった。もう一方の準決勝は富重宣子(柳井高校)と原口広子(熊谷女子高校)の対戦。原口はカット主戦型だった。深津は心の中で「富重さん、がんばって」と応援した。願いが通じたのか、カット主戦型の原口は敗れた。
 決勝は富重と争うことになり、深津は危なげなく勝利を収めた。リードされた場面といえば、出足に張り切りすぎて攻撃ミスが出たときだけだった。
 気づけば、深津は全試合ストレート勝ちで優勝を決めていた。これで、国民体育大会・全日本選手権大会ジュニアの部・インターハイと、3大会連続すべてストレート勝ちで優勝したことになる。これは史上で深津ただ1人が成した大記録だ。当時の『卓球レポート』にはこう評されている。
「好不調、勝ち負けの波の激しい高校卓球界にあって、深津のこの無敵ぶりは賞賛に値するもので、平素の厳しい精進のほどがしのばれる」
 自己分析、そして進学
 インターハイ優勝後、複数の大学からスカウトの声がかかった。関東の実力ある大学も、地元の有名大学も、深津の入学を臨んだ。これらいずれの大学も入学試験は免除で、入学後も優遇するという。しかし、深津が選んだのは、意外にも慶應義塾大学だった。
 慶應大学の卓球部は、とりたてて強いわけではなかった。では、なぜ慶應大学を選んだのか。大学での活躍を期待する周りの声とは逆に、深津は自分のことを冷静に分析していたのだった。
「私の卓球はジュニアレベルでは良かったが、これから先はきっと通用しない。私はカットを打てない。それに、レベルが上がるほど体力が必要になるから、練習にもついていけないだろう」
 また、中学校から高校へ進学したときほどの気力がなかったのも事実だ。
 卓球を始めたころは楽しくて仕方がなかった。ボールを打つこと自体に魅力を感じ、「もっとラリーが続けられたらいいな」と、ひたむきにボールを追いかけた。そして、全国大会を夢見て名門の桜丘高校へ進学した。
 しかし、深津はそこで練習の厳しさ、勝負の厳しさを知ることになる。卓球が楽しいことに変わりはなかったが、楽しさだけではなかった。深津は、「高校での3年間は、何かにつけて人生の中で1番がんばった」と言い切る。
 大学でまた4年間がんばり続けるなんて無理だ。桜丘高校のときのようにはできない、息が続かない...。
 深津の自己分析は当たっていた。荻村伊智朗は、当時の深津の卓球について「スケールが小さい」とコメントしている。さらに、深津は卓球専門誌を読み、世界にはカット主戦型が多くいることも知っていた。国際試合では太刀打ちできないと感じていたのだろう。
 また、慶應大学卓球部のマネージャーが自宅までスカウトに訪れたことも、深津の心を揺さぶった。直接会って話をしたいと岡崎まで足を運び、切々と訴えかける熱意に打たれ、深津は慶應大学進学を心に決めたのだった。桜丘高校の教師は「東京なら大きな試合もあるだろうし、国際大会にも出やすいだろう」と、賛成してくれた。
 しかし、問題はあった。家族の反対だ。高校進学はすんなり認めてくれたものの、今回は話が別だった。東京に行くということが大問題だったのだ。
「名古屋の大学ならば、姉が嫁いでいるからそこから通えばいい。東京へなんて行くな」
 家族の反応は否定的だった。
 そんなときに深津を後押ししてくれたのは、松井と桜丘高校の校長夫人・満田典子だった。深津の自宅まで出向いて説得に当たってくれたのだ。両親は「先生に言ってもらえるなら...」と、徐々に折れ始めた。
 さらに、満田の提案で、深津は家族にあてて手紙を書いた。
「東京はお金がかかりますが、お嫁入り道具は一切要(い)りませんから、行かせてください」
 ついに家族は折れた。東京の大学に進学することに納得したのである。
 しかし、ここからが大変だった。当時の慶應大学には推薦入試の制度がなかったのだ。2次試験は極力通るように体育会が働きかけてくれるが、その前に筆記試験の1次試験を何とかクリアしなくてはならない。簡単には合格できないことは承知していたが、自宅まで来てくれたマネージャーの熱意を思うと、決意を翻すわけにはいかなかった。
 受験勉強
 一般の高校生と同じように、勉強の日々が始まった。部活は週に2日だけフリーになり、松井の骨折りで英語の教師が家庭教師をしてくれることになった。さらに、慶應大学卓球部のマネージャーが模範試験を深津に送ってくれた。問題を解いて返送すると、採点されて戻ってくるのだった。
 深津はよく考え抜いた卓球をしていたように、勉強にも熱心に取り組んだ。おまけに、もともと勤勉で真面目な性格だった。
 松井はこう語る。
「1度だけ深津をひっぱたいたことがある。2年生の2学期末のテスト直前だ。全日本選手権大会ジュニアの部の優勝を狙い、夜間練習を行っていた。帰寮後は深夜12時までは勉強してもよいが、それ以後は翌日の体調を考慮して就寝するように申し渡してあった。
 夜中の1時か2時ごろ、妙な予感がしてひょいと見回ったら、階段の薄暗い電灯の下で、ぶくぶくの半纏(はんてん)を着込んだ深津がこっそりうずくまって試験勉強をしているではないか。日ごろからあまり体の丈夫ではない彼女だから、監督としてもことさらに神経を使っていたのだ。思わずカッとして往復ビンタを張ったことを覚えている」
 努力家の深津は、慶應大学に合格した。本人は今でも「運が良かった」と語るが、平素の真面目な努力の積み重ねが報われたのだろう。
「全日本の代表合宿に辞書を持ってくるのは深津くらいだ」
 これは、後に日本代表監督になった荻村の言葉だ。代表選手の中でただ1人の大学生で、時には合宿と試験の時期が重なったが、深津にはそれを両立しようと努力する真面目さがあった。
「技も頭脳もエース」は、引退するまで揺るがなかった。
 慶應の卓球部
 かくして深津は慶應大学卓球部に入部した。関東学生リーグで2部のメンバーの中、高校ナンバーワンである深津の実力はダントツだった。
 部の雰囲気は高校時代とまったく違った。中学校で卓球をやっても高校時代は他の部に所属していた選手や、高校から卓球を始めた選手も少なくない。指導者もおらず、下宿しているのは自分だけ。規定練習は少なく、都合のいいときにだけ参加すれば良い。それらは深津にはショックなことだった。
 また、環境が変わり、目新しいものへの好奇心もあった。
「大学生になったのだからアルバイトしたり、遊んだりもしてみたい。せっかく慶應に来たのだから、勉強もがんばってみようかな」
 深津は、練習に費やす時間を少なく済ませることを考えるようになった。それでも、大学デビュー戦の関東学生新人選手権大会で優勝。また、入部当時2部だった関東学生リーグでは全勝優勝し、チームは1部昇格を果たした。
「さすがインターハイチャンピオン」
 練習しなくても全勝してしまう状況に、練習時間はますます少なくなった。
「もともと卓球をやりに大学に進学したわけではないのだし...」
 真剣に卓球をするでもなく、かといって他の何かに熱中するでもなく、深津は淡々と日々を過ごしていた。
 そして迎えた秋の関東学生リーグ戦。深津は初めて1部校の選手と対戦し、初戦で敗れた。悔しかった。大学生のトップ選手との「差」を初めて知ったことへの悔しさだった。しばらくは口も聞けないほどだった。
 やり場のない気持ちを処理できず、深津は松井に悔しさを打ち明けた。
「まだこれからだよ。気を落とすな。とにかく練習場へ行け。今すぐに」
 深津はすぐに卓球場へ向かい、くたくたになるまでボールを打ち込んだ。
 眠りから覚めたようなものだった。悔しさによって、心の深くに閉じ込めていた本来の自分を取り戻したのだ。
「自分は卓球しかできないんだ。卓球以外に夢中になれるものはないんだ」
 深津は練習を再開した。やるからにはもっと「上」を目指そう。
 カットが打てなければ世界で通用しない
 深津にとって「上」とは、「世界」だった。自分に足りないものは、努力しなければならないことは、克服しなければならないことは...。上を目指すために考えれば課題は尽きないが、その中で1つだけ絶対なものがあった。
「カットが打てなければ、世界で通用しない」
 世界に目を向ければ、ヨーロッパが視界に入ってくる。当時のヨーロッパはシェークハンドのカット主戦型が主流だった。そして、深津のカット打ちの未熟さは、高校時代に証明されてしまっていた。深津はカット打ちの克服から始めようと考えた。だが、慶應大学の女子部員にはカット打ちの相手をできるような選手はいなかった。
 そんなとき、男子部のキャプテンが深津を練習に誘ってくれた。当時、男女が一緒に練習することは珍しいことだった(このときの男子部員の1人が料亭「二蝶」の後継ぎで、後に深津と結婚する)。しかし、部員たちは「インターハイチャンピオンをつぶすわけにはいかない」と考えたのだろう。男子部には関東学生1部リーグでも勝ち星を挙げる実力者がおり、深津は質の高い練習をすることができた。
 こうして、慶應大学男子卓球部のおかげで、深津の技術には大きな変化がもたらされることになる。
(2005年7月号掲載)
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