独特な一本差しグリップから放つ「ジェットドライブ」や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで世界を魅了した長谷川信彦。
運動能力が決して優れていたわけではなかったが、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」であった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2002年10月号を再編したものです
人の3倍練習してやる
期待に胸をふくらませ、名電高校に入学してから3カ月。だが、信彦はラケットを見るのも嫌になっていた。毎日毎日、素振りのフットワークばかり。台についてフットワーク練習をすれば、これもミスばかりで、「精神棒」で何度もたたかれた。合宿所ではつらい雑用が待っていた。
「もう嫌だ。名電高校をやめて帰ろう」
何度そう思ったかわからない。だが、信彦はそのたびに思いとどまった。
「自分は両親にあれだけ迷惑をかけて名電高校に入れてもらったんだ。後藤先生に拾ってもらったんだ。強くなるまでは帰るわけにはいかない」
トレーニングばかりの練習に加えて「精神棒」でたたかれる日々に、
ラケットを見ることさえ嫌になっていた
そんなある日、信彦はふと思った。
「自分はこれだけたくさんの練習をしているんだ。素振りのフットワークなんて、毎日1000回以上もやってる。絶対に強くならなきゃ損じゃないか。今、人よりも劣っているんだったら、人の2倍でも3倍でも練習する。絶対強くなるぞ」
そう思ったときから、練習に対する態度ががらっと変わった。初めてフットワーク練習に対して、自分から前向きに取り組みだしたのだ。
「どんなボールでも、絶対に追いついて、コートに入れてやる」
さらに自分が打っていないときにも、先輩が練習しているところを見て、いいと思ったところはどんどん盗もうとした。人の練習をただ見ているのではなく、じっくり観察し、自分との違いを見つけたらそこを直していく。中学時代に名選手のフォームを連続写真で見ながら、自分のフォームを直していったときと同じである。
このとき信彦はあることに気づいた。フットワークのいい選手は、足をほとんど止めていない。打った後すぐに足を小刻みに動かし、次の球に備えているんだ。だからボールに対する反応が早いんだ。このことに気づいた信彦は、実際にやってみた。すると今までよりも、大きく、速く動けるではないか。こうして、1年生の夏には、コート全面にランダムに送られるボールに対して、何とかオールフォアで返球できるようになっていた。
夏休みの練習は朝9時から夜9時まで、食事の時間を除くと、ぶっ続けでやった。夏の間、信彦はほとんどの時間をフットワーク練習に費やした。非常につらい練習だったが、ラリーが続くようになった信彦にとっては、楽しい練習でもあった。
またこのころには、グリップを一本差しに戻していた。入部当初、先輩からは変えるように厳しく言われていた一本差しだったが、信彦はさんざん苦心した挙げ句、自分にはこのグリップしかない、とあらためて思い直し、元通りでやっていこうと決意した。
そうして、夏休みの終わりには、フットワークもよくなり、急速に力をつけていった。
練習態度が変わると、私生活に対する気持ちも変わった。夏休みに入りしばらくして、実家に帰ったときのことだった。家に着くと信彦はすぐに母親に向かってこう言った。
「何か手伝うことはない?掃除でも洗濯でも何でもやるよ」
信彦は、合宿所で雑用をしているうちに、家事の大変さを、身をもって感じたのだ。そして、今まで自分の母親がどれだけ大変なことをやってきたか、ということを考え、家に帰ったらたくさん手伝いをしよう、と思ったのだった。家での手伝いは、合宿所での雑用に比べればとても楽だった。結局、信彦は家にいる間も常に何かの手伝いをやり、休もうとしなかった。
「厳しい合宿生活で、心が鍛えられた。それで人間的に成長した。そのおかげで卓球の技術も、伸ばすことができたんだ」
芽生え
その年の10月、全日本選手権大会ジュニアの部愛知県予選、何と信彦はベスト4に入って全日本選手権大会へ出場することになった。しかも決定戦では、同期で中学時代には愛知県でナンバーワンだった深谷を破っての勝利であった。高校に入学してからまだ半年。本格的な練習を始めたのは高校に入ってからで、フットワーク練習がまともにできるようになったのは、夏になってから、というのに、早くも全日本選手権大会に出ることになったのである。
入部当初は、信彦がここまで強くなろうとは、先輩たちの誰1人として考えていなかっただろう。ラリーがまともに続かず、そのうえグリップがおかしかった信彦は、誰からも認められていなかったのだ。しかし、高校入学後に地道なフットワーク練習をたくさんやったことで、もともとスピードのあったドライブの威力が増し、この成績につながったのだ。その素晴らしいドライブを支えたのは、中学時代の素振りであったのは言うまでもない。
そして同じ年の暮れ、浅草台東体育館で行われた全日本選手権大会。信彦は「2~3回は勝てるのではないか」と考えていた。ところが1回戦、青森の村上になすすべもなく、破れてしまった。
「こんなきれいな体育館なのに、もう試合ができないなんて」
そう思うと信彦は悔しくて悔しくてたまらなかった。試合が終わった後、体育館の隅で1人で涙を流した。だが、このとき信彦は初めてはっきりとした目標を持った。
「来年のインターハイでは必ず、2~3回は勝つ」
それまでは、ただ漠然と強くなりたいとか、一流選手になりたいといった目標しかなかったが、明確な目標を持つことで自分のやるべきことが具体的に見えてきたのだ。信彦は全身が熱くなっていくのを感じた。
課題と工夫
全日本選手権大会が終わり、学校に戻って初めの練習のときだった。信彦は初めて自分から「フットワークの練習をお願いします」と先輩に頼んだ。全日本選手権大会での敗因を分析し、考えた具体的な課題は次のようなものだ。
第1にレシーブの強化である。レシーブから威力のあるボールを打てることが、強い相手に勝つためには、不可欠だと思ったのだ。
第2に、ドライブの威力を高めること。自分の一番の武器がドライブであることはわかっていた。その武器の威力をさらに高めていけば勝てる、と考えたのだ。
そして最も重要だと考えたのが、フットワークを今まで以上に強化することだった。どこに打たれても威力のあるボールを、自分から打たなくてはいけない、そう考えた信彦は今まで以上にフットワーク練習をやろうと強く決心したのだ。
信彦から初めて頼んだフットワーク練習、相手は信彦の気迫のこもった言葉に驚いたのか、ボールの送り方が少し甘くなった。
「もっと大きく振り分けてください」
信彦は大きな声で言った。大きく回されれば、当然ミスは増える。ノータッチでミスをすれば精神棒でたたかれるのは変わらない。だが、信彦はそんなことはまったく気にならなかった。
「ノータッチは卓球選手の恥だ」
間に合わないようなボールでも飛びついて取りにいき、いつも全身あざだらけになった。毎日すさまじい気迫で、1時間はフットワーク練習をやった。そして、夜のゲーム練習。毎試合何らかの課題を自分なりに考えてやっていた。レシーブからすべて払っていこうとか、3球目は絶対にフォアでドライブをかけていこう、といった具合にだ。
信彦は卓球にそれまでとは違う楽しさを感じていた。それまでは卓球をただ「やっている」だけで楽しかった。しかし、このときから「頭を使う楽しさ、工夫する楽しさ」が加わったのだ。自ら目標を持ち、課題を考え、主体性を持って練習をやる。1球1球を大事にして、2度同じミスを繰り返さないようにする。信彦はそれまで以上に卓球が楽しくなり、卓球が好きになった。(次回へ続く)
Profile 長谷川信彦 はせがわのぶひこ
1947年3月5日 ー 2005年11月7日。愛知県瀬戸市出身。
1967年世界卓球選手権ストックホルム大会男子シングルス優勝。
一本差し右シェーク攻撃型。快速ドライブとバックスマッシュ、ロビングで18歳で全日本制覇。20歳で世界制覇。全国優勝29回、アジア優勝20回、世界優勝5回。




