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世界一への道 長谷川信彦 
人の3倍練習し、基本の鬼といわれた男 6

 独特な一本差しグリップから放つ「ジェットドライブ」や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで世界を魅了した長谷川信彦。
 運動能力が決して優れていたわけではなかったが、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」であった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=田中大輔 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2002年10月号を再編したものです


試合運びの重要さ
 翌年の春、名電高校は大阪遠征に行った。遠征の4日目、相手は「大阪ベテラン会」というクラブチーム。信彦は内心「何でこんな年寄りの相手をしないといけないんだ」とあまり気合が入らなかった。
 ところが1試合目、信彦はあっさりと負けてしまったのである。そんなばかな、と思いまた試合をやってみてもまた負けてしまう。何度やっても結果は同じだった。
「自分の方が、フットワークもいいし、ボールの威力もあるのに何で負けたんだろう?」
 信彦は考えた。
「そうだ、あの人たちは相手の逆を突くのがうまいんだ」
 信彦はこのとき初めて試合運びの重要さに気づいた。
「ボールに威力がなくても、相手の心理の逆を突ければ試合で勝てるんじゃないか」
 そう思った信彦は、学校に戻ってから先輩とのゲーム練習のときに、それを意識してみることにした。すると自分が強いボールを打たなくても、おもしろいように点が入る。そうやって、今まで勝てなかった先輩に勝てたのだ。こうして信彦は名電高校の中でも次第に負けなくなっていった。
「練習試合というのは、高い意識を持ってやれば、1試合で時には1カ月分の練習と同じだけの効果があるんだ」

迷いを振り払い
 高校2年の夏、インターハイ愛知県予選の団体戦。最初、信彦は補欠の予定だった。本人は当然不満だったが仕方がない。自分では強くなったとは思っていても、一本差しグリップのせいで相変わらず周囲の評価は低かったのだ。
 ところが予選期間中に、レギュラーの1人が風邪をひいてしまったのだ。そこでやっと出番が回ってきた。信彦はこのチャンスを逃してなるものかと、死に物狂いでがんばった。その結果団体戦に全勝し、それ以降はレギュラーとして認められるようになった。個人戦でも予選を勝ち抜き、初めてのインターハイ代表となったのだった。
 迎えたインターハイ。信彦は団体戦でレギュラーとして出場した。チームは惜しくも青森商業高校に敗れ準優勝に終わったが、信彦は準決勝の高輪高校戦のラストで勝利するなど、大活躍であった。
 さらにシングルスでは準決勝まで進出した。対戦相手は関東商工高校の石井清彦。この年の全日本ジュニアチャンピオンである。当然周りの人間も、そして本人すらもまさか勝てるとは思っていなかった。しかし何と試合は、ゲームオールとなり、最終ゲームも信彦は17-13でリードした。(編集部注:当時は1ゲーム21ポイントの3ゲームズマッチ)
「よし、これはもしかしたら勝てるかもしれない」
 しかし、そこから信彦の動きが止まってしまった。それまでは、負けてもともと、と無我夢中でやっていたが、勝利を意識した瞬間からミスが怖くなったのだ。そうなると打つボールもただ入れるだけになり、威力のない、コースの甘いボールになってしまう。そして信彦はそれから防戦一方のまま、1点も取れずにゲームを17-21で落としてしまったのだ。「この試合、勝てる」と思った瞬間にできた心の隙(すき)であった。
 準決勝で敗れたとはいっても、信彦は高校2年生のインターハイで団体戦で準優勝に貢献しただけでなく、個人戦でも第3位という、目標を大きく上回る成績を挙げた。このことで自分の一本差しグリップにも、大きな自信が持てるようになった。入部したてのころに「何だ、その変なグリップは。直せ」と言われていたグリップである。これだけの成績を挙げられたことで、一本差しグリップが自分に合っているんだ、ということをあらためて確信したのだ。
 グリップの悩みを完全に振り切った信彦は、インターハイでの経験を生かし、夏以降もさらに猛練習を続けた。そして10月に行われた国体では、チームは見事全国優勝。さらに信彦にとっては2度目となるこの年の全日本選手権大会ジュニアの部で、シングルスベスト8(ランキングは5位)という素晴らしい成績を収めたのだった。

昭和38年の第18回国民体育大会、高校男子優勝の愛知
左から深谷、長谷川、荻野、久野、後藤監督



連続優勝の伝統
 翌年、3年生になった信彦は、主将を務めることになった。名電高校は前の年まで「10年間連続で全国優勝」という輝かしい記録を残していた。前年は国体で優勝し、その前の年は先輩の馬場園憲が全日本選手権大会ジュニアの部で優勝している。
 この「10年間連続で全国優勝」という伝統が、信彦に大変なプレッシャーになった。今年は自分が優勝しないといけないのである。
「絶対に名電高校の伝統を受け継がなくてはいけない。もしも今年、団体か個人で優勝できなかったら、責任をとって退学しよう」
信彦はそう決心した。
「全国優勝するための最大の強敵は東山高校だ。これからは東山高校に勝つための練習をしなくてはいけない」
 信彦は「対東山」を想定した練習を考えた。初めて全日本選手権大会で敗れた後の「どうすれば自分が勝てるか」という練習方法から一歩進んで、「どうすれば東山に勝てるか」という実際の対戦相手を想定しての練習方法だ。
 信彦が東山高校を研究して見つけた東山高校の特徴は2つ。とにかく先手を取るのがうまいこと、バッククロスの攻めが強いことであった。そして考えた練習は、「先手を取ること」と「相手のフォアを攻めること」の2つを目標に置いたものとなった。
「相手よりも先に攻めるためにはもっともっとフットワークを強化しなくちゃいけない。速く動いてどんなボールも先にフォアで攻撃するんだ」
 規定の練習は午後の3時15分から夜の9時半までだったが、信彦はそれだけでは満足せず、終わってからも夜の11時半ごろまでフットワーク練習を続けた。もちろん、毎朝5キロのランニングと、20分のウエートトレーニングも欠かさなかった。
「とにかく死んでも優勝しなくちゃいかん、と思っていた。東山に勝つためには、東山の2倍練習しなくちゃいけないと思っていたよ。この時期、日本の高校生の中で一番頭を使って、一番たくさん練習したのは私だったんじゃないかな。もちろんフットワーク練習も日本一たくさんやっただろうね」
 そうして猛練習を積んで夏の国体を迎えた(この年は東京オリンピックがあり、国体は6月に行われた)。この時の信彦は絶好調で、まるでボールが止まっているように見えたという。練習の成果で、レシーブから積極的に攻めていき、得意なドライブをどんどん打っていくことができた。この大会決勝戦の対新潟戦でも圧勝し、全試合3-0というスコアで、国体高校男子の部で優勝することができたのだった。ちなみに強敵の東山高校(京都)は1回戦で敗退してしまったために、結局東山高校との対戦はなかった。

昭和39年の第19回国民体育大会の愛知代表
前列左から4人目が長谷川信彦


怠慢の報い
 国体で優勝し、全国優勝という大きな目標を達成し、信彦は大きなプレッシャーから解放された。しかし、同時にそれは目標を失ったことも意味していた。本来ならばここで次の目標を見つけ、またそれに向けて自分を鍛えていかなくてはいけなかったのだろう。しかし、信彦はそれができないまま、とりあえず2カ月後のインターハイに向けて練習をすることにした。
 ところが、プレッシャーから解放された信彦は全然練習に身が入らない。練習やトレーニングをやるにはやるのだが、自分の限界までやろうという気が起きないのだ。フットワーク練習をしても、すぐに楽をしようと、バックハンドを使ってしまう。トレーニングも体力の限界までとは程遠い、楽なことばかりやっていた。
 報いはすぐに来た。2カ月後のインターハイ、団体戦準決勝の東山戦、大事なダブルスを負けてしまい、チームもその試合に敗れてしまったのだ。

昭和39年インターハイ男子学校対抗準決勝。
長谷川信彦は1番シングルスで勝利するも3番ダブルスを落とし
チームも敗れた

 その後に行われたダブルスは何とか優勝するものの、シングルスでは東山高校の岡田に、苦手なバックを狙われて5回戦で敗退してしまったのだ。
 さらに、目標を見つけられないまま迎えた全日本選手権大会ジュニアの部。信彦はインターハイで負けたことで、多少は気を引き締めて臨んだものの、国体の時の調子からは程遠い状態だった。それに加え、この大会で注目されていた信彦は、「勝たなくてはいけない」というプレッシャーが悪い方に働き、思うように体が動かない。結局、ベスト8決定戦で柏(高輪高校)に敗れてしまった。この試合、信彦は得意のドライブを、鉄壁と言われた柏のショートに止められ、さらに苦手の台上処理や、バックハンドといった弱点をつかれてしまったのだ。惨敗だった。
 注目されていただけに、この敗戦によっていろいろな人が信彦を批判した。
「長谷川はだめだ。一本差しグリップで、バックハンドが振れない。台上処理も下手だ」
 そんなことを言う人もいた。そして、信彦は完全に自信をなくしてしまった。
次回へ続く



Profile 長谷川信彦 はせがわのぶひこ
1947年3月5日 ー 2005年11月7日。愛知県瀬戸市出身。
1967年世界卓球選手権ストックホルム大会男子シングルス優勝。
一本差し右シェーク攻撃型。快速ドライブとバックスマッシュ、ロビングで18歳で全日本制覇。20歳で世界制覇。全国優勝29回、アジア優勝20回、世界優勝5回。

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