世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年3月号を再編したものです
野平さんとの出会い
全日本選手権大会ジュニアの部で2位になった直後のこの時期、河野にはもう一つの大きな出会いが待っていた。その後、河野が「野平さん、野平さん」と長きにわたって慕うことになる、野平孝雄との出会いである。
当時の野平さんは専修大学の学生で、全日本でもトップクラスの名選手。同じ専大出身の相川先生の紹介で、河野のところを訪れた。初めて対面する河野に向かって、野平さんは真剣な表情で言った。
「専修大に来ないか。いっしょに卓球がしたいんだ」
うれしい申し出ではあったが、正直言って、河野は迷った。実はこのころ、いろいろな大学から声がかかるようになっていたのである。青森商高のOBたちもこぞって声をかけた。
「河野、法政大に来ないか」
「いや、中央大でやろう」
早稲田大、慶応大、明治大、数え上げればきりがなかった。どこに行けばいいのだろう。河野は戸惑っていた。
結果を出そう!
迷う河野の心を揺さぶったのは、野平さんの熱意だった。野平さんは東京から青森まで何度も何度も河野を訪れ、専修大に入ってくれるよう説得した。専修大の部長までもが、河野を説得に訪れた。
それは、高校3年生のインターハイで河野が無惨に敗れた後も、途絶えることはなかった。
「河野、俺は絶対に4年間お前の面倒を見るよ。専大でいっしょに卓球をやろう。河野が卒業するまでは、俺が面倒を見るから」
野平さんの熱意に打たれ、河野は専修大進学を希望するようになっていた。しかし、インターハイでも結果を出せなかった自分は、本当に野平さんの熱意にふさわしい選手なのだろうか。このままではいけない。大会で結果を出そう。野平さんの熱意に、結果で答えよう。河野はそれまで以上に激しく練習した。
こうして迎えた全日本選手権大会。ジュニアの部で、河野は本当に結果を出した。練習に練習を重ねたバックハンド攻撃で、準決勝、決勝とも相手を圧倒し、見事に優勝。よかった、これで野平さんに顔向けができる。
全国タイトルを手に、河野は胸を張って専修大学へ入学した。
大学
「やっぱすごいな」
河野が専修大に入り、最初に感じた印象だ。「すごい」にはいろいろなニュアンスがある。全国から選りすぐりの、すごい選手がたくさんいるということ。そして、すごい厳しさ。
一人悪けりゃみんな悪い。それが、専修大卓球部を支配する考え方だった。誰かが遅刻すれば、全員が殴られる。誰かがトレーニングの手を抜けば、全員が殴られる。その厳しさは、高校時代以上だった。
ライバル
そんな中、河野は一人の男と親しくなった。山口訛(なま)りで話す豪胆そうな男。後に、河野より先に世界チャンピオンとなる、伊藤繁雄である。ともに田舎から上京してきたためか、非常に気が合った二人は、よくいっしょに行動した。
半面、伊藤は河野にとって一番のライバルでもあった。伊藤が居残り練習をすれば、河野も負けじと練習し、伊藤がトレーニングを始めれば、河野も負けじとトレーニングをした。
「俺ちょっと走るから、荷物を頼んでいいか」
ある日の練習後、伊藤にそう言われ、河野に対抗心がわき上がった。こいつ、自分だけランニングして、俺に差をつけるつもりだな。そうはさせるか。河野は、自分も走ることにした。
伊藤を追いかけて走り、コースを1周して戻ると、伊藤は2周目に行ったようだ。負けじと、河野も2周目を走る。あいつが疲れて体育館に戻っても、俺は走り続けてやるぞ。お互いにそう考えた負けず嫌いの二人は、門限ギリギリまで走り続けた。
次の一歩
大学に入って少したったある日、野平さんがどことなく改まった様子で声をかけてきた。
「おう、河野。お前にちょっと聞いておきたいことがあるんだけど」
そうして切り出された話の突飛さに、河野はすっかり仰天してしまった。(次回へ続く)
Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。




