2025年6月15日、ドイツ・ブンデスリーガ2024-2025シーズンのプレーオフ決勝を最後に、ティモ・ボル(ドイツ)は華麗な卓球人生に幕を下ろした。
そのキャリアを通じて、彼は創造性あふれるプレーとフェアネスに満ちた振る舞いで、30年以上もの間、私たちを魅了し続けてきた。
では、なぜボルはこれほど長く第一線で活躍し続けることができたのか。
その答えを探るべく、卓球レポートは引退後初となるインタビューで、技術・戦術・フィジカル・メンタルといった多角的な側面から、「卓球脳」とも呼ぶべき彼の深い洞察に迫った。
第2回では、ティモ・ボルの才能を見いだし、基礎を築いた指導者、ヘルムート・ハンプルの教えを紹介しよう。
ボルの卓球の基礎を作ったハンプルの教え
技術については、基本的にヘルムート・ハンプルから教わりました。彼が重視したのは打球の安定、単純なミスをしないこと、卓球台に近い位置でプレーし、あまり下がらないことでした。
彼はよく私の後ろにフェンスを置いて、私が卓球台から下がれないようにしました。また、ラリー中には常にラケットハンドを高い位置にキープするように指導されました。これらは後に、非常に重要になったのです。
私がまだ幼かった頃は、同世代の他の選手たちはすぐに後陣に下がって大きなスイングをしていました。私もそのようなプレーはできましたが、基本的には卓球台の近くで、コンパクトで速いプレースタイルでした。私はスイングが速く、ボールを薄く捉えて打つ感覚もありました。この感覚は先天的なものでしたが、技術自体はコーチから与えられたものでした。私は技術をうまく身に付け、成功していけると感じていました。
私の直感は何が良いか、どうすればうまくいくのかを感じ取ることができ、それは才能だったのだと思います。私は当時から自分自身について分析するのが得意だったのです。
ハンプルが理想の卓球を描き、それをボルが実現した
ヘルムートのもとに初めて行ったのは8歳の頃で、地域のトップの子どもたちを集めたヘッセン州での選抜合宿でした。そこで私は良いプレーをして、アピールすることができ、ヘッセン州のトレーニングセンターに入ることになりました。そうして、8歳から26歳になるまで週5回彼らと一緒に練習するようになったのです。
ハンプルはヘッセン州の協会のコーチとしてだけでなく、後にはフランクフルト、そして、ゲナンのクラブでも私のコーチを務め、私がボルシア・デュッセルドルフに移籍するまで彼の指導を受けました。
私の考えでは、彼が私に指導したようなプレースタイルは、彼自身が当時、成功しやすいプレースタイルとしてイメージしていたものだったと思います。つまり、前陣で攻撃的に、速く動き、相手にプレッシャーをかけ、時間を与えないというものです。それは、私だけのための指導ではなく、ヘルムートは他の選手にも同じように教えようとしていたと思います。
もちろん、誰もが私のようにその指導を実践し、身に付けられたわけではありませんでした。前陣でプレーするのは難しいので、こうしたプレーをするには才能も必要です。相手のボールを恐れてはいけないし、どこにボールが来るのかを予測できなければ、うまく対応することはできません。そうした時間的な余裕のない状況こそが、私の才能を際立たせたのだと思います。
そして、私は彼が提唱するプレースタイルを、彼が思い描いたように完璧に実行することができました。
完璧主義者になることで、卓球に深く入り込み、感じ取り、味わう楽しみを知った
ただ、子どもの頃は、時には奇抜なプレーをしたいと思うこともありました。そして、少し大きなスイングをして、リスクを負って強打するようなこともありましたが、そのようなプレーをすると、ヘルムートはとても怒りました。彼のもとではそのようなプレーは一切許されませんでした。ですから、私は水谷隼のように後陣でロビングをするのが得意ではないのです。
私はそのような(後陣での)プレーを学ぶことは本当にありませんでした。常に前陣にとどまらなければならず、ヘルムートはその点について、とても厳しかったのです。練習は当初からとても真剣で、遊びのようなボールは打たせてもらえず、常に効率を意識してプレーしなければなりませんでした。そして、常に完璧にプレーすることが目標であり、プレーは人に見せるためのものではありませんでした。
私はヘルムートの完璧主義の影響を受け、時間がたつにつれて私も完璧主義者になっていきました。常に細部にまでこだわって取り組むことが楽しくなりましたし、卓球に深く入り込み、感じ取り、味わうことを知ったのです。それこそが私にとって一番楽しいことでした。
ヘルムートは常に私が基本的なことを完璧にプレーするように気を配っていました。そして、私は目に見えない、感じ取ることしかできないような、ごくわずかなラケット角度の変化など、細部にまで注意を払う意識を培っていきました。私は細部にまで強くこだわることで、自分自身の戦略を築き上げていったのです。
朝、学校に行って、下校後すぐ宿題をした後に、親が1時間かけてフランクフルトまで、車で送ってくれるのが毎日のルーチンでした。練習は厳しく体力的にもハードでしたが、それでも楽しかったのです。真剣な練習も私にとってはとても楽しいものでした。時には私も愚痴をこぼす日がありましたが、そのような時もヘルムートはうまく対応してくれました。彼はいつ厳しくすべきか、優しくすべきかをうまく見極めて対処してくれていましたが、普段は非常に厳しいコーチでした。そして、その厳しさは私に必要なものだったのです。
次回は「変化への適応」と題して、長い選手生活の中で、ルール変更などにより変化を迫られた際のボルの対処方法について詳しく聞いた。
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(取材/まとめ=卓球レポート)




