田舛彦介

【年表】 生誕〜学生時代〜戦時中


生誕〜学生時代〜戦時中

1920年 8月20日 山口県柳井町(現柳井市)で製菓販売業・天狗堂を営む父義一、母タカヨの長男として出生
1931年 12月 小学校5年生のとき父義一の東京土産の卓球セットがきっかけで卓球を始める(11歳)
1933年 4月 旧制柳井商業学校へ入学。卓球部へ入部。(12歳)
のち、3年生で山口県中等学校卓球大会で団体・個人優勝。5年生で山口県一般男子単優勝
1938年 3月 旧制柳井商業学校を卒業(17歳)。父義一の「菓子屋の跡継ぎに大学は必要ない」で熱望した大学での選手生活を断念し家業の傍ら県内各地でコーチ活動を続ける。一方、柳井卓球協会の組織強化に力を注ぎ、会報〔柳井の卓球〕を発行。地域卓球の活性化を目指し、「西日本卓球選手権大会」を創設
1940年 4月 時の全日本選手権優勝者今孝選手、第2位の頤天願選手を柳井に招聘、両選手と模範試合。これを機に、今孝選手の人格、プレーに心酔してカット主戦オールラウンド選手となり、今選手との親交が始まる(19歳)
1941年 7月 卓球へのたぎる情熱、自身独自の練習方法をまとめた「私の卓球道」なる小冊子を自費出版し500余人に配る(20歳)
9月 明治神宮体育大会(現国体)から、卓球等が軍部の圧力により「柔弱なスポーツ」として種目から除外されたことを知り、厚生省中川事務官と日本卓球協会沼主事に猛烈な抗議文を送る一方、自ら「卓球体育報国推進隊」をつくり、卓球を柔弱と切り捨てた軍部に抵抗姿勢を示す。「卓球は柔弱なスポーツではない」を世に訴えるため、"優勝か死か"の覚悟で、初の20キロマラソンに挑戦し、優勝。翌日の新聞が「卓球の田舛が勝つ」と報ずる(21歳)
1942年 3月 教育実習で山口の連隊に入隊。上等兵に、「卓球の田舛はお前か、軍隊はシャバと違うぞ」と凄まれる(21歳)
1943年 3月 島津久代と皇居を参拝して結婚(22歳)
1944年 2月 2回目の召集。暗号教育隊で教育係助手(上等兵)となり、暗号体操を考案し全隊員が実施(23歳)。3月に長女紘子出生
1945年 8月 広島市宇品にて原子爆弾被爆。幸運にも生き残る。この経験により、平和に関わる仕事をしたいとの念を強める。翌月、柳井に復員(24歳)
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田舛彦介

【年表】 戦後〜創業〜晩年


戦後〜創業〜晩年

1946年 7月 柳井町に、タマス運動具店を開業。東京、大阪より運動用具を仕入れる。同時に選手活動を再開(25歳)
11月 長男公彦出生(株式会社タマス3代目代表取締役社長)。戦後第1回の国体兼全日本卓球選手権大会決勝で藤井則和選手との死闘に敗れ第2位となる。男子複第2位、混合複第3位(26歳)
1949年 3月 使用ラバーは英国製であったが、入手困難で進駐軍を通じ入手していた。その経験から、誰もが簡単に入手できる高性能ラバーを日本で作りたい、との一念でゴムメーカーと協力し、初のバタフライラバ一、ラケットを製造販売する。東京出張所をつくり、東は三共スポーツ商会(現三共スポーツ株式会社)、西はイモト運動店(現株式会社イモト)と取引を開始する(28歳)
1949年 12月 全日本卓球選手権大会最後の出場。男子単第3位、男子複第7位、混合複優勝(パートナー田中良子選手)。父義一の「お前が遊んでいたんじゃ社員の指導ができんぞ」の言葉で選手生活を断念(29歳)
1950年 12月 株式会社タマスを設立(本社山口県柳井町・資本金100万円)し、専務取締役に就任。初代社長は父義一(30歳)
1952年 10月 東京都杉並区に東京支店を設立(32歳)。翌年には東京支店でラケット自家生産を始める
1953年 8月 マッカーサー元帥杯全国都市対抗大会で柳井町が全国制覇。自ら指導者兼中心選手として活躍(32歳)
1954年 3月 「世界卓球アンケート」を世界中の協会会長、名選手に送付し、世界の卓球事情を調査する。特に名選手の使用する用具に関わる箇所が後にバタフライの用具戦略に重要な位置を占めることになる(33歳)
1956年 3月 東京進出。柳井本社を閉鎖し、東京支店を株式会社タマス本社とする(35歳)
1957年 4月 杉並区卓球連盟理事長に就任。柳井時代の地域卓球振興の経験を活かし、「全中央沿線卓球優勝大会」を開催、この大会から多くの有名選手が輩出される(36歳)
9月 優秀な指導者の不在、正確な情報の不十分な地方の選手としての経験から指導者の養成、的確な情報伝達の必要性を痛感し、「卓球レポート」を創刊(37歳)
1959年 12月 株式会社タマスの役員改選で代表取締役社長に就任。幹部新体制をつくり東京での企業活動を軌道に乗せる。社内にあっては、毎月初に「月頭報告」で前月の収支決算を全社員に明らかにし、社員の経営参加意識を昂揚させる(39歳)
1964年 6月 商標バタフライがオランダ代理店によって欧州に於いて不正登録される(43歳)。苦闘の末、13年後に商標権を奪回する
1967年 12月 所沢工場(現バタフライ・テック)完成(47歳)
1973年 1月 欧州現地法人タマス・バタフライ・ヨーロッパ設立。工業所有権の管理、欧州市場の拡大、情報収集を図る(52歳)
1975年 7月 アジア卓球連合から除外されていた韓国との非公式友好試合を善隣友好の信念から斡旋開始する(54歳)
1983年 4月 企業利益還元の一環として、卓球人への鍛練の場を広く提供すべく「バタフライ卓球道場」を阿佐谷に建設(62歳)。各大学の合宿、海外からの卓球留学生、レディース卓球教室、各種講習会、TV番組収録、芸能人卓球クラブ練習会等に幅広く利用される
1988年 9月 スロバキア・ブラチスラバ市で開催された「国際卓球コーチ会議」で講演(68歳)
1991年 11月 勲五等双光旭日章受章(71歳)
12月 株式会社タマス代表取締役社長を長男公彦に譲り、代表取締役会長に就任(71歳)
1997年 4月 代表取締役会長を退任し、取締役相談役に就任(76歳)
1999年 12月 取締役相談役を退任(79歳)。退任後は会社顧問として要請に応じて各地にて講演活動を続ける
2003年 12月 郷里山口県柳井市の名誉市民に推挙される(83歳)
2004年 7月22日 静養先の箱根にてその生涯を閉じる(83歳)
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タマス昔の写真