グルーの有無にかかわらず、最高の性能を追求した。ノングルーでの成功は必然だった

『テナジー』の開発が進んでいった1990年代後半から2000年代前半。それはまさにスピードグルー全盛の時代。男子のトップ選手ではスピードグルーを10回以上も塗り込んだり、何回も「仮貼り」してスポンジを膨らませることも珍しくなかった。ラバーの「チューニング」によって本来の性能がリセットされてしまう時代、ラバーの性能が正当に評価されない時代だったと言えるかもしれない。
しかし、研究開発チームのメンバーには、「スピードグルーを塗る」という前提でスポンジを開発する発想がなかった。スピードグルーを使ったチューニングは人それぞれ。それに広く対応するような「ほどほど」のラバーではなく、より尖った性能、最高の性能を目指す。
当時、例えば自動車業界などでは、スピードグルーにも含まれていたVOC(揮発性有機溶剤)に対する規制が厳しさを増していた。卓球界でもVOCはやがて姿を消し、ノングルーの時代が来ることはある程度予見できたという。それは多くの技術者にとっての一般論だった。同時に研究開発チームのスタッフは、「研究者としてとにかく最高のものを目指すんだ」という理想に燃えていた。
ラバーの開発は、量産する上での品質とのバランス、発売のタイミングなどを考えながら、どこかで着地点を探さなければならない。その着地点を一歩でも遠く、到達点を少しでも高くするために、最高のものを作りたい。「あらためて振り返ってみても、本当に純粋でした。そして、その姿勢はずっと変わっていません」(山崎)。

2007年9月、日本国内ではスピードグルーの使用が禁止され、国際大会での使用禁止も08年北京五輪の閉幕直後、2008年9月1日からとアナウンスされていた。ラバーの実力そのもので勝負できる「ノングルー時代」が間近に迫り、極秘裏に進められていた『テナジー』の開発も、社内で少しずつオープンになりつつあった。
2007年頃には、量産に向けて一定のめどが立っていた『テナジー』。
スポンジの開発がスタートしてから10年、プロトタイプ第1号ができてから7年もの月日が経過していたが、スポンジの製造における「歩留まり」はまだ課題を残していた。「歩留まり」とは、生産した数量の中から市場に出すことができる製品の割合のこと。バタフライの厳しい検査基準に合格できず、廃棄されるスポンジが少なからずあったのだ。
歩留まりが悪ければ、ラバー1枚当たりのコストは当然高くなる。それでも、ノングルーで最高の性能を発揮するラバーを、スピードグルーの使用禁止というタイミングにぶつけないわけにはいかない。『テナジー』の第1作目、『テナジー05』の発売日は2008年4月21日に設定された。
今でこそ『テナジー』が圧倒的な存在感を放つバタフライだが、当時はいわば夜明け前。「テナジー発売前夜」の苦しみを抱えていた。
バタフライの『ブライス』が大ヒットした後、各メーカーがテンション系ラバーを次々にリリース。『ブライス』や『スレイバー』は相変わらずよく売れていたが、絶対的な優位を保っていたわけではない。『ブライス』の後継種である『ブライス スピード』も、ユーザーの話題を集めていたものの、どこまで支持を広げるかは未知数だった。
これからバタフライは、どうなってしまうのか。そんな閉塞感すら漂う中、生産体制が十分に整わないにもかかわらず、発売に踏み切ったのが『テナジー』だった。結果的にそれは吉、いや大吉と出る。スピードグルーの使用が禁止された2008年9月1日以降、国内外のトップ選手が次々にラバーを『テナジー05』に変えていった。


2008年4月に発売された『テナジー05』の旧パッケージ

株式会社タマス代表取締役社長の大澤卓子は、「研究開発の立場からすると、『まだ歩留まりも悪いし、これで発売してもよいのか』という不安はありました。スタッフには苦労をかけたと思います」と当時を振り返る。
「ただ、今から考えれば乱暴だったかもしれませんが、課題に目をつぶってでも発売に踏み切った決断は本当に大きかった。当時はそれくらい危機感もありました」(大澤)
当初は注文もそれほど多くなかった『テナジー05』だが、発売から半年くらいたった08年の秋から注文が急増。発売から1年がたつ頃には、注文の数は当初の10倍に達し、半年単位で量産機を増設してもさばききれなかった。全国で品薄状態となり、卓球専門店によっては『テナジー』の入荷は「1カ月に2枚だけ」というケースもあった。「連休が来るたび、また休日返上で『テナジー』の生産だなと思ったのを覚えていますね」。苦笑いしながら土屋は言う。
注文が急増し、生産量が上がることで、生産効率が高まるというメリットもあった。少量ずつ作っていたのでは見えてこない課題をクリアしていくことで、歩留まりについても確実に改善され、今では不良品は非常に少なくなっている。その不良品も、普通の人が見ればほとんど判別できないレベルだ。
開発・量産に10年以上を費やした「スプリング スポンジ」、それにマッチングする粒形状の研究。両方の良いところがピークに達した時、卓球界にノングルー時代が到来した。
それは「神様のご褒美」のような偶然にも見えるが、積み上げてきた必然の結果でもあった。スピードグルーの使用、不使用にかかわらず最高の性能を目指した『テナジー』の大ヒットは、ノングルー時代の必然だった。


2008年8月のインターハイで、両面に『テナジー05』を使用して優勝した松平健太。彼の成功がテナジー人気に火をつける一因となった

『テナジー05』に続いて、『テナジー25』、『テナジー64』、そして『テナジー80』に、それぞれスポンジ硬度が低いFXを加えた、8種類のラインアップがリリースされていった『テナジー』。
「05(ゼロゴー)」「64(ロクヨン)」という数字は、それだけで『テナジー』の略称になるほど、広く浸透している。これは全て、実際にトップシートの粒形状の「コード番号」として使用されていたものだ。「80」は、実際には「180」だが、『テナジー180』だと長くて言いにくいので「80」に省略されている。
『テナジー』最大のブレークスルー(技術革新)が、「スプリング スポンジ」の開発であることは間違いない。しかし、ラバー全体の性能を語る上では、もう一つのブレークスルーである粒形状の進化も見逃せない。
『スレイバー』の粒形状を王道として、なかなか手を付けられないでいた粒形状の分野。未踏峰に踏み込んだ『テナジー』の粒形状は、どのようにして現在の形に決まっていったのか。

【卓球王国 2016年12月号掲載】
■文中敬称略
取材=卓球王国
撮影=江藤義典