男子のトップ選手は『テナジー』をすぐには使ってくれませんでした

「新しい用具を発売する時、『これはヒットするだろう』という確信を持ったことは一度もありません。むしろ不安の方が、ずっと大きいんです」。
92年から06年までバタフライの研究開発チームに在籍し、『テナジー』開発の礎を築いた山崎斉はそう語る。それは思いがけない告白である。
世界中の選手から圧倒的な支持を集め、日本市場ではオープン価格への移行で「テナジー・ショック」とも言うべき騒動を巻き起こしたモンスターラバー『テナジー』。しかし、08年4月21日に第一作の『テナジー05』がリリースされた時、マーケットの反応は鈍いものだった。多くのユーザーからは「硬い」「重い」という声が上がった。
『テナジー』は、売れなかったのだ。
「男子のトップ選手に『テナジー』の使用をアプローチしても、すぐには使ってくれませんでした。試打会でも男子選手からは『これでは飛ばない』という声が多かったです。当時、日本ではまだ補助剤(ブースター)が使えましたから、『ブライス』や『ブライス スピード』、『スレイバー』を使う選手の方が多かったですね」。
山崎から『テナジー』の研究開発を引き継ぎ、研究開発チームのマネジャーとして『テナジー』を世に送り出した久保真道は語る。


長く研究開発チームに在籍し、現在は経営企画チームのリーダーである山崎(左写真)。トップ選手からの信頼も厚い久保(右写真)は、現在はマーケティングチームに在籍

用具の研究開発は長いレースだ。多くの課題を克服し、真新しいパッケージに包まれたラバーやラケットが店頭に並んでも、それはまだスタートラインに立ったに過ぎない。そこに安堵感はあっても、達成感はない。多くのユーザーの支持を集め、使用するトップ選手がビッグゲームのタイトルをつかんだ時、開発者たちの苦労はようやく報われるのだ。 用具の転換期を前に、多くの不安を抱えながら船出した『テナジー』。
しかし、発売から間もない08年8月の埼玉インターハイで松平健太(青森山田高2年・当時)が『テナジー05』を使用して優勝し、大きなインパクトを残した。そして、08年9月1日からのスピードグルー・補助剤(ブースター)などによるラバーの「後加工禁止」を受け、新しいシーズンを迎えた欧州のトップ選手たちが次々に『テナジー』に変えていった。 その後に『テナジー25』(08年11月発売)と『テナジー64』(09年4月発売)が加わったテナジーシリーズは、発売からわずか1年後に開催された世界選手権横浜大会で使用率35%(バタフライによる出場選手のうち98%の使用用具調査)という驚異的な数字をたたき出す。
それはバタフライにとっても想定外だった。トップ選手にいち早く広まったことが、草の根のユーザーにも強力なアピールポイントとなった。そして、世界中から注文が殺到して出荷数量を制限しなければならなくなり、世界の市場で『テナジー』の在庫切れが続いた。 売れないラバー『テナジー』はモンスターに化けた。ラバーの研究開発には5年、10年という長い歳月がかかる中、なぜ2008年というタイミングで発売され、ノングルーという時代の風をつかむことができたのか。
『テナジー』、開発前夜。それは決して短くはない物語だ。